宮台真司の『A GHOST STORY』評(後編):「存在」から「存在の記憶」へ、さらには「存在したという事実は消えないこと」へ

宮台真司の『A GHOST STORY』評(後編):「存在」から「存在の記憶」へ、さらには「存在したという事実は消えないこと」へ

この社会は既に終わっているとはどういうことか

 前々回前回を通じて『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』を論じる準備をしてきました。この映画のようにストーリーより世界観を描く作品が増えてきました。<世界>がそもそもどうなっているかを寓意的に示すものです。そうした作品は、情報量が限られた映画なのに膨大な情報量を体験させます。僕らが<社会>を生きて蓄積してきた何かが触発されるからです。僕らは何を触発されるのか。

 社会学者リッツァは、「マクドナルド」の如き「役割とマニュアル」に従えば誰でも入替可能なシステムによる「没人格」(ウェーバー)の疎外感が、埋め合わせとしての「ディズニーランド」に象徴されるが如き「消費の祝祭化」(ボードリヤール)を招来するとし、「マクドナルド化」と「ディズニーランド化」を、裂け目を作り出して自ら埋めるシステムのマッチポンプだと理解します。そう、「クソ社会」。

 リッツァがこうした考察を示したのが四半世紀前の『マクドナルド化する社会』(原著1992年)。表現者や観客が既に<社会>がそうしたものであるのを「知って」います。少し前まで<社会>は違ったはずだ。<社会>の外はどうなっているのか。恐らくこうした意識を背景に「<世界>/<社会>」=「<森>/<草原>」なる二項図式を用いた範型としての映画『アンチクライスト』(2009)が登場したのです。

 ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』は僕らが「<世界>=<森>」を要求している事を「映画体験として」示しました。<世界>に何があるからか。<森>に何があるからか。それを知るべくアピチャッポン・ウィーラセタクン監督『トロピカル・マラディ』(2004)を検討し始めました。そこには「微熱の街」=輪郭を欠いたものの集まり=<森>が描かれています。「視線の邂逅」が生じる街です。

『トロピカル・マラディ』が描く「水平の多視座」

 冒頭近くのバス車内。男が女を見る。女が視線に気づく。女が羞うことで誘う。男が女を訪れる。男は訪れるが誘われている。女は訪れを待つが誘っている。花が蜜蜂を誘う。蜜蜂が花を訪れる。蜜蜂は訪れるものの誘われている。花は訪れを待つが誘っている。視線が邂逅し絡み合う時。そこではどちらが能動でどちらが受動なのかが曖昧になります。能動態・受動態でなく中動態です。

 映画は冒頭から中動態の視線劇です。森を背景とした草原でケンを含む森林警備隊員がカメラを見つめて記念撮影する。トン(ケンの想い人)の実家でケンがトンの母親の背中を見つめる。母親が夕餉で若い女と男が見つめ合うのに気づき、続いてケンが自分の息子トンを見つめるのに気づく。彼女は「視線劇」に敏感です。続くオープニングロールでケンがカメラ目線でこちらを見つめるのです。

 その誘うような眼差しには誰もがどきどきさせられます。前半冒頭は視線劇のオンパレードですが前半末尾も視線劇です。森に移動するトラックの荷台に乗ったケンを含む警備隊員の面々を舐めるようにカメラがパンします。喋る隊員もいれば、眠っている隊員もいますが、カメラ目線でこちらを見つめる隊員もいます。どの顔も視線も活き活きして、僕らは性的な意味で誘惑されます。

 前半の随所にエロチックな視線劇があります。夜のイサーンで、ゲーセンから屋台街に繰り出すトンとケン。音と光の万華鏡。屋台の匂いまで漂う。数多の灯の中を歩く二人が睦言を交わす。僕らも至福に包まれます。舞台は突然レストランの歌謡ショー。女がこちらを見て歌う。二人の踊り子らが互いを見つめ合って踊る。ケンとトンが食堂テーブルにいる。ここもどきどきする場面です。

 歌手がケンを見ながら彼からのリクエストを観客に告げる。そこからが眩暈の場面。客たちが振り向いてケンを見る。はにかんだケンがトンの視線を捉える。トンがケンに微笑み返す。トンが歩き出して歌手にレイをかける。歌手がトンを舞台に上げて二人のデュエットが始まる。トンがはにかみながら歌手を見る。歌手がトンを見る。それを見たケンが微笑む──。視線の邂逅の連鎖です。

 能動と受動のユニットである個体。それが複数、視線の邂逅を通じて中動態的合体を遂げ、より大きなユニットを構成します。こうして小ユニットが合体して中ユニットに。合体が進んで大ユニットになります。ナンパやフィールドワークをしていた90年代半ばまでの「微熱の街」渋谷のストリートにも、スワッピングの現場にも、存在していたアメーバのような「合体のダイナミクス」です。

 都会より早く冷えた郊外でも祝祭時には同じ営みがありました。大きな鈴をしょった「跳ね人」たちが朝から街中に満たす鈴の音で、夜の祭りに向けて男女の体温が上がっていくのが、青森のネブタ祭りですが、どこでも同じことがあったのです。夜の祭りを待たずに、昼間から祭り囃子が響くと、男女は次第にアッパー化して「いい感じ」になり、視線の邂逅でアメーバ化していったわけです。

 トンとケンが映画館の椅子に座って身体的接触を始めます。それまでの視線劇で二人も観客も温まっています。だから二人の至福が僕らに感染します。上映後の映画館のトイレでケンに旧恋人の男が声を掛けます。見かけないと思ったらなるほどね、でも明日は僕の相手をしてくれよ、と。祭りは終わったんだと言うケンに、意に介さずに微笑みを返す旧恋人。ごく自然なポリアモリーです。

 歌謡レストランでも映画館でも、ポリアモラスな時空とモノアモラスな時空の間でエロス的空間が膨縮します。そこには、視線の邂逅で接触し合い、合体し合う、多視座的な運動体があります。かつて「微熱の街」を身体化していた僕から見て、エロスの多視座的な運動体を育む「微熱の街」を、かくも活き活きと描いた作品はありません。ウィーラセタクン監督の最高傑作だと思う所以です。

 エロスの多視座的な運動体が、洞窟逸話につながり、後半に橋渡しされます。池の畔のベンチで戯れる二人。200年生きた伯父さんの話をトンがします。そこに花売りの女が来て鍾乳洞に誘います。二人が拝むキッチュな拝所。女が怪奇話でおどかす暗く狭い穴。穴を抜けるとなぜか女の姉が経営する食堂──。支離滅裂な展開ですが、エロスの膨縮で一体感があるので違和感がありません。

 その女に誘われてショッピングモールに行くと、派手な音楽に合わせてエアロビクスダンスを踊る集団がいる。壇上で踊りつつケンに手を振るコーチ。ケンが手を振り返します。コーチは映画館でケンに声を掛けた旧恋人です。ただそれだけ──。知り合いの映画作家が言います。映画をこんなに自由に撮ってもいいものだとは知らなかったと。偶然が偶然を呼ぶ。支離滅裂で未規定な逸話たち。

 逸話たちはどう見てもランダムな配列です。これほどのランダムネスには意図があるに決まっています。時間軸上は出鱈目で順不同な逸話の集まりなのに、全てが一体だと感じられる──。一体性を際立たせるためのランダムネスです。このランダムネスの一体性こそ、「視線の邂逅=接触する多視座=重なるパラレルワールド=膨縮するエロス」つまり「微熱の街」がもたらす、時間感覚なのです。

 前回「水平の多視座」と言いました。フラットな言い方ですが、中身は紹介した通り、今の僕らが経験できない<森>の時空です。前々回アニミズムの「水平次元」として予告したもの。遊動民・先住民の視座でもあります。これと対照的な「垂直次元」が『トロピカル~』の後半です。前半末尾の洞窟体験の「光⇒闇⇒光」という形式と、警備隊トラックの森への移動が、後半の闇=<森>を暗示します。

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