宮台真司の月刊映画時評 第11回(前編)
宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画
根本的に間違った社会をどう生きるべきか
夫の世界から妻の世界へ。左辺から右辺へ。映画が描き出す動きは、元の場所に還るという意味で「エデンの森」の回復です。人にクソ社会を作らせたキリスト教を払拭する「反キリスト」の運動です。そこにインセストやニンフォマニアといったシャルロット・ゲンズブールのパブリックイメージや『最後の誘惑』でイエスを演じたウィレム・デフォーのパブリックイメージが利用されます。
映画が描き出す動きゆえに、夫は妻に殺されて終わると想像されます。実際、逆十字に横たわる夫に聖痕が現れます。でも最後には逆に妻が夫に殺されます。しかし妻の敗北ではない。妻によって傷を刻まれた夫は以前のようには<社会>を生きられません。妻によって足にボルトで砥石を括り付けられた際に骨を砕かれた夫は、<足萎えのオイディプス>として「森から草原に」出て来るのです。
この感動的なラストシーンでは<足萎えのオイディプス>の周りに無数の「女達」が群れ集います。そこで例の二項図式が再確認されます。男/女、草原/森、輪郭あり/輪郭なし、屹立/癒合、離散体/連続体、光/闇。<足萎えのオイディプス>は恐らく、クソ社会の中で犠牲になった者達を背負いながら、これからを生きていくことだろう……観客にそう予想させた処で映画が終ります。
これはもちろん、<足萎えのオイディプス>として<社会>を生きてゆけ、治らない傷を隠して「なりすまし」ながら<社会>を生きていけ、という推奨でもあります。この推奨が現実に有効であり得る程度に応じて、『アンチクライスト』はアート=治らない傷を付ける営みとして、成功したことになります。その意味で『アンチクライスト』はアートとは何かに自己言及する形式も備えています。
この映画を教科書にすると世紀末以来の様々な<森>の映画を論じやすくなります。<森>は規定不能な全体性の喩です。『ア・ゴースト・ストーリー』も<森>の映画です。次回は<森>の映画の最高傑作であるアピチャッポン(アピチャートポーン)・ウィーラセタクン監督の『トロピカル・マラディ』(2004年)に触れて更に準備を整えてから、『ア・ゴースト・ストーリー』を味わいましょう。
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■公開情報
『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』
公開中
監督:デヴィッド・ロウリー
出演:ケイシー・アフレック、ルーニー・マーラ
配給:パルコ
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公式サイト:http://www.ags-movie.jp/