宮台真司の『A GHOST STORY』評(後編):「存在」から「存在の記憶」へ、さらには「存在したという事実は消えないこと」へ

宮台真司『ア・ゴースト・ストーリー』評後編

<社会>からの幽体離脱を説く『ア・ゴースト~』

 90年代前半の僕は援助交際に加えて新興宗教のフィールドワークをしていました。そこで「齢をとらない人々」を目撃しました。男女を問わず信者の多くが年齢不詳。40歳だと思ったら60歳とか。理由を考えました。当初は「輝きを諦めないからだ」と考えました。今は少し先まで考え、彼らが諦めない理由は、<世界>の時間を生き、<社会>の時間を生きていないからだ、と僕は推測しています。

 謂わば<社会>を仮の姿で生きるのです。彼らは<社会>へのコミットが薄いと思われるかもしれません。必ずしもそうではありません。マジガチで<社会>を生きれば自己防衛的になりがちですが、仮の姿で生きればむしろ果敢になれます。パウロのローマ帝国での布教戦略は、信徒らが誰よりも社会的に振る舞うことで(カリタス=社会貢献)、信徒らが反社会的だとの偏見を取り除くことでした。

 そこでは社会にコミットするという意味が違う。地位や評判に恋々とする「損得への執着を指すのではなく、損得に執着することなく人や社会に利他的に貢献することを指します。正確には「個人の損得」よりも「共同体の損得」を目指す内発性(ヴァーチュー=内からの力)が高まること。取材経験ではそうした人は加齢しません。彼らは加齢で死ぬよりも、必要がなくなれば社会から消えるのです。

 『ア・ゴースト・ストーリー』は「<社会>からの幽体離脱」をモチーフにします。郊外の家に若夫婦が転入して、原因不明の物音に悩みます。突然、夫が事故死します。彼は「天国への道」を拒絶し、幽霊男となって家に戻ります。喪失感に苦しむ妻が程なく日常を取り戻すのを、幽霊男は視ます。幽霊男は「視る」けれど「視られない」存在です。隣家にも幽霊女がいて、互いを「視る」ことができます。

 やがて妻に男ができ、柱の隙間にメモを残し転出します。留まった幽霊男はメモの取り出しに苦闘しますが果たせません。幽霊男には言葉が判らないヒスパニック系母子家庭が転入しますが、幽霊男が起こすラップ現象に脅え転出します。次に賑やかな若者達が転入。一人がパーティで「人は死ぬ、宇宙は終わる、全存在は消える、だから存在に意味はない」と語るのを、幽霊男が視ています。

 若者達の転出後、メモの取出しに格闘中に、突然クレーンが家を壊します。壊された隣家の幽霊女が「待っていたが来ない(から諦めた)」と呟き消失します。やがてビル街となったそこに昔の面影はありません。絶望して高階から飛び降りた幽霊男は「時を駆ける存在」となり、今は開拓時代に野宿する白人家族を視ています。幼女が石の下にメモを隠しますが、家族諸共が先住民に惨殺されます。

 幽霊男が「かつての家」に戻ると、物件を探す夫(昔の自分)と妻が現れます。幽霊男は夫妻が暮らすのを視ますが、幽霊男が立てる物音に夫妻が脅えます。夫が事故死。残された妻の生活を視る幽霊男(昔の自分)がいるのを幽霊男が視ます。妻の転出を視る幽霊男(昔の自分)を視た後、メモの端が覗いているのに幽霊男が気づきます。引っ張り出して一瞥した瞬間、幽霊男は消え、映画が終ります。

 「現世に執着が残る内は成仏できず、執着が消えて成仏する」というのは日本人に馴染みですが、全過程は「幽霊男の成長=視座の変化」の話です。事故死直後は、残された妻の「存在に」執ります。男ができた妻の転出後は、妻の「思い出に」執ります。最後は、「妻が確かに存在したという事実」ゆえに執りから脱します。最後の境地が「<社会>からの幽体離脱」=「<世界>から<社会>を視る視座」です。

 「<社会>からの幽体離脱」=「<世界>から<社会>を視る視座」を、映画の中の要素だけで理解するのが難しいので、まず『アンチクライスト』(2009)を「<社会>と<世界>という二項図式」を理解するための範型として検討、次に『トロピカル・マラディ』(2004)を「<世界>から<社会>を視た時に<社会>が奇跡として現れるための条件」を理解するための範型として検討しました。その結果をまとめます。

 1.<社会>が没人格システムのマッチポンプとなり、言葉と法が支配する<社会>が益々クソ化する。
 2.すると、相対的快楽しかない<社会>から、絶対的享楽がある<世界>への、離脱願望が生じる。
 3.離脱後に<世界>から<社会>を視る再帰的視座にとって、<社会>が奇蹟として現れる場合がある。
 4.但し無条件でなく、<社会>の奇蹟化には「視線の邂逅」が象徴する「エロスの膨縮」が必要である。
 5.言葉と法が支配する<社会>で祝祭が消え、性愛が「視線の邂逅=横の多視座」の唯一の依代となった。

 『ア・ゴースト~』は特に3.を焦点化します。「妻の存在」→「妻の記憶」→「妻が確かに存在したという事実(を示すメモ)」、と移行した幽霊男の視座が、<社会>を奇蹟として再帰的に捉え、昇天を可能にします。ただし4.にあるように、妻との間の「視線の邂逅=エロスの膨縮」が、再帰的視座に於ける<社会>の奇蹟化の条件を与えます。かくて本作が与える名状しがたい感動の由来が理解できます。

 僕らは「<世界>は確かにそうなっている」と納得しました。そして「<社会>を生きる中で僕らが蓄積したもの(僕らが本当は知っていこと)」を知ることもできました。ここで、「<社会>を生きる中で僕らが蓄積するもの」を更に深く知るのに役立つ作品として、同じ映画製作会社「A24」が送り出した大傑作、ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2014)について、紹介することにします。

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