『悪人』『横道世之介』『怒り』など相次ぐ映画化 吉田修一作品が映画監督を魅了する理由とは
李相日監督で映画化された『悪人』では、保険外交員の女性を殺害した土木作業員が警察に疑われていることを察知し、出会い系で知りあった相手と逃避行する様を描く。自分に関する嘘を広められたくないと焦った結果、逆に世間を騒がせる事件になってしまったという皮肉な構図が、同作にはあった。
同じく李監督で映画化された『怒り』では、物語を重層的な形にして、場所の空気感を濃密に描いた。八王子郊外で起きた夫婦惨殺事件の、整形手術をして逃走中だという犯人のモンタージュ写真が公開されたが、東京、房総、沖縄の3カ所に似た男が現れ、いずれも周囲に波紋を起こす。人となりのよくわからない3人の男は、それぞれ親しい人ができるが、疑いの目がむけられ始める。そばにいる人々は、信じたいのに信じきれないことに苦しむ。
『悪人』や『怒り』が殺人事件を核にした物語だったのに対し、沖田修一監督が映画化した『横道世之介』はお人好しの大学生が主人公の青春ものであり、「善人」とでも名づけたい作品だった。同作は世之介の人柄ゆえに出会った人々に温もりが伝わっていった。犯罪小説と青春小説ではテイストが異なるものの、吉田の物語の描きかたには共通性がある。
吉田は、トラベル・ミステリーのように観光地の風景を画としてただ切りとるのではなく、土地ごとの生活や人間関係のありかたとともに“場所”のディテールを描くのだ。都市か地方か、人口密度、働き口の多少や種類、暮らす人々の年齢層、にぎわいの有無などをそれとなく書きこみつつ登場人物を造形する。それが吉田作品の魅力の1つであり、映像化したい欲望を誘う。
映画『怒り』に出演した渡辺謙は、同作を純愛の映画だと評するとともに、愛する人がいなくなる喪失感は、小説より映像のほうが鮮明に出るかもしれないと語った。「『スクリーンでずっと観続けていた人がいなくなってしまう』というリアリティは、映画ならではの感触だと思うんです」(『ダ・ヴィンチ』2016年10月号)というのだ。渡辺の話す感覚は、吉田修一原作だからなおさらそうなるのだと思う。吉田は、人間関係のあやとともに風景をしっかりとらえる。だからこそ、そこから人が去った時の喪失感が、いっそう大きくなる。