菊地成孔の映画関税撤廃 第8回

菊地成孔の『アリー/ スター誕生』評:完璧さのインフレーション

本気か?

 この、「まあそりゃあ、アカデミー賞は獲るよね。でも意外と主題歌賞だけだったりするのかも。とはいえ、品格としては複数ノミニー前提ぐらいのステージにある、ということだけは間違いない」本作に対して、世評が何と言っているか? 勿論ここでいう「世評」とはSNSのことではない。

 先ず

「究極的にエモーショナル!出会ったことがない愛の物語」

 としているVariety誌は論外である。「出会ったことがない愛の物語」? 本作は3度目のリメイクであり、制作年代に合せて、抜本的な意匠の変換を行った前作(76年版。以下「バーブラ版」。バーブラはストライサンド)にほぼ準じており、「物語」という単語を「ストーリー」と逆翻訳する限りに於いて、言わんや、「あらすじ」に於いてをや、37年の映画オリジナル版から一貫して変更はなく、「出会ったことがない」どころではない。むしろ「誰でも知っている、お馴染みの物語」ーー例えば『ロミオとジュリエット』とか『オペラ座の怪人』だとか『忠臣蔵』のようにーーとして定番化している。

 冒頭だが書いてしまったって良い<ショービズ界ですでに成功している男性が、まだ世に出ていない、天才的な女性に恋し、フックアップする。最初は幸せだったが、やがて女性が男性の手を離れるほどに成功するにつれ、男性のポテンツは折れ、破滅に向かう。女性は男性を愛すれど、どうすることもできない>これが基本的なストーリーラインである。当然本作の脚本も、これを骨子にして揺るぎない。

 とまあ、これはVariety誌のちょっとしたスリップに粘着する形で、本作のあらすじと概要を説明したにすぎないが、筆者がガチで「本気か?」と思うのは

「レディー・ガガの演技にノックアウトさせられる」

 としたTIME誌や

「天才女優・ガガが誕生した」

 としたTIME OUT誌、ならびに、本作のオフィシャルサイト内の「著名人コメント」の、筆者を除く全員(マジで・笑)のコメント総てである。

 もう一度聞くが、本気か? だとしたら例えば、特に名を伏せるが「初めてレディーガガの本当の姿を見た気がする」的なコメントをしたコメンテーターは、きっと本当に、レディー・ガガの姿を、まともに観たことが今までなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のだろう(因みに筆者のコメントは「クーパー!!ガチびっくりしたよ!!すげえじゃん!!(ガガは想定内)」)。堂々たる本作の、唯一の構造的弱点は「レディー・ガガの人生や実際のライブの方が、この映画のアリーのそれよりもずっとすげえ」という点だからである。

努力家や完璧主義者による、圧倒や感動のインフレを誰が責められようか? 責められない事の地獄がここにある

 デヴューしてから一貫して、絶対に手を抜かない完璧主義者ガガの価値が今や、完全なインフレ状態にある事、その事が本作を、大感動という名の拘束衣のような、逆説的な装置として締め付け、<感動マックスにして上限ががっちり押さえつけられている>という、奇妙な後味にしてしまっている事を、ガガの責任として石もてうつ事は勿論できない。ガガの努力と実現力は、時に人の命や、命がけのメッセージを封殺してしまうほどのものだ。

 例えば筆者は、直接手を下していないだけで、エイミー・ワインハウスを殺したのはレディー・ガガだと思っている。勿論、ワインハウスの命を奪ったのは、直接的には短躯で細いのにドラッグを大量に摂取したからとか、父親の愛がいびつで、特に成功による苦悩が、彼女を追い詰めた事にあるのは言うまでもない。

 しかし、ここにトニー・ベネットという補助線を引くだけで、太陽であるガガに対し、否応無しに月の役割に回されるという、ロールプレイ上のマウンティングのような、強い力が発生している事が明確になる。

 嘘だと思ったら、あらゆる検索をかけ、トニー・ベネットがデュエット相手をガガで行なっている録音風景と、ワインハウスで行なっているそれ(このシーンは、ワインハウスの伝記ドキュメンタリー、『『AMY エイミー』』に含まれてもいる)を比べてみると良い。先ずは両者の相貌が姉妹のように似ている事に驚かれるであろうが、ガガの陽性の生命力に対し、ワインハウスの自滅に向かうしかない、無邪気なダークさ、その黒い輝きは、ジャズマニアと言わず、音楽マニアと言わず、音楽リテラシーが限りなく低い者、予備知識が全くない者にさえ歴然とするであろう。筆者は、この二つの動画を見比べるにつけ「これはガガは(あるいはワインハウスは)見比べているのだろうか?」という、誘惑的な夢想に囚われられずにはいられない。

 また一方、3年前のアカデミー賞授賞式に於いて、『グローリー』の主題歌をコモンとジョン・レジェンドが歌い、二人とも「公民権運動から50年経ったけど、今のがよっぽど酷い」「SNSによって、デモ行進できない黒人が増えている」「監視カメラは、50年で10倍になった」等々、スピーチでマジギレしており、え? これオスカー? BET(ブラック・エンターテインメント・TV)アワード? という雰囲気にさせた瞬間、「さあさあお次は<サウンド・オブ・ミュージック・トリビュート」>ですよ~」と、移動舞台に乗った、ジュリー・アンドリュースの格好したガガが、ざーっと横入りみたいに、小鳥や森の気と一緒に入って来て、「サウンド・オブ・ミュージック・メドレー」を、もう嫌になるほど完璧にこなし、「さっきニガーが騒いでたのなんだっけ?」ぐらいに吹き飛ばしてしまった、あのパワー、あの不愉快感(笑)は忘れられない。ガガのことは結構好きなのに「ジョン・レジェンド! お前のピアノに隠してあるガンを抜け!!」と、モニターの前で絶叫してしまった、3つ若かったオレ。という有様なのである。

 他にもレディー・ガガは、徹底的としか言いようのない、<やりすぎてしまう>表現ジャンキーぶりによって、例えばJP・ゴルチェを、再生させる格好で潰しかけてしまったり、性的虐待にあった子供達を、主役にする格好で脇役に押しとどめてしまったりと、類例、枚挙にいとまがない。スタジオでレイプされたPTSDの賜物なのかどうか、一種の病理によって駆動される完璧主義としか言いようのない欲動が生む、圧殺の力は、当然自らに返ってくる。

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