菊地成孔の『フロリダ・プロジェクト』評:夢の国の外縁はゲトーが取り囲んでいる。これは驚くべき真実なんかじゃない。原理である。

菊地成孔の『フロリダ・プロジェクト』評

中心と周縁

 山口昌男を引っ張りださなくとも、周縁は中心に対し、圧倒的な差異を抱きながら、両極の片方を担うようになっている事を我々は知っている。皇居の周りはランウエアに身を包んだランナーが取り囲んでぐるぐる回っている(皇室の人々との圧倒的な差異!)、プエルトリコの首都サンファンは山の上にあり、上に向かえば向かうほど途方もない金持ちが住んでいる。サンファンの周囲はヴァージン海峡である。サンファンでトラブルがあったら即射殺、山から裏の海にポイ捨てされれば、サメがガブガブっとやって証拠はわずかな肉片以外残らない。彼女という中心の周縁には僕らがいて、圧倒的な差異を抱きながら、両極の片側を担っている。ガザ地区は、その逆転的な極例であろう。

 と、こんな漫画のような面白さを列記せずとも、一番図式的にリアルなのがフランス国のパリ市である。

 パリ市街図を見ると、環状の高速道路に囲まれるようにパリ市があるのがわかる。この輪っかの外に、革命前夜までにはゲトーがあって、革命時には中に押し寄せたのであろう、と、誰もが(フランスに市民革命があったことを知ってさえいれば、だが)簡単に想像するだろう。実際にそうだし、何と驚くべきことに、200有余年を経た現在に至ってもそうなのである。

 双子の天才ダンサーチーム「ル・トゥイン」や、フランスで初のジャジーヒップホップチームである「ホーカス・ポーカス」がこの地区出身なのは有名である。ゲトー出身のアーティストに優れた者が多いのは、一般的な一つの偏りだが、そういった、アートに昇華された形でなく、こうした地域の汚濁と緊張、退廃と諦めをそのまま劇映画にした作品としては2015年のカンヌでパルムドールを獲得しながら、ほとんど誰も知らない『ディーパンの闘い』(ジャック・オーディアール監督 / アントニーターサン・ジェスターサン主演)をご覧になることをお勧めする。

 内戦により荒廃したスリランカを出て、フランスに渡った、所謂「タミル難民」の物語であり、実際にスリランカのテロ組織「タミル・タイガー」出身のアントニーターサン・ジェスターサンを主演に据え、徹頭徹尾、陰々滅々としたゲトーの風景と、そこで繰り広げられる、激戦とはとても言えない、やはり陰々滅々とした抗争が描かれる。この作品のテーマは「EUが拭い去れない移民問題」や「それでもそこにある愛」を僅差で超えて「パリ市郊外の荒廃をドキュメントのように、世界中に見せつける」事であろう。

 驚くべきことに(しかも二重に)、我が国にも同様の作品がある。『ディーパンの闘い』と同年に公開された、『ケンとカズ』(小路紘史監督・脚本・編集 / カトウシンスケ主演)である。筆者はこの作品を、当連載中に扱った数多くの作品の中のベストとするに一切の躊躇はない(菊地成孔の『ケンとカズ』評:浦安のジュリアス・シーザー/『ケンとカズ』を律する、震えるようなリアルの質について)。

 この作品は、浦安のディズニーリゾートの周縁に、ゲトーが広がっており、そこに覚醒剤の簡易製造工場と、売人の組織がひしめき合っていることを描くことで、「夢の国」の外側には悪夢のような、こじれたまでのリアルが取り囲んでいないと、「夢の国」自体が成立し得ないことを痛いほど見事に描いている。

<周縁が中心の模倣である>という激痛

 それでもまだ、ディズニーランドと浦安のゲトーは、高い壁によって厳格に隔絶されている。このことは、どんなに少なく見積もっても健全であると言えるだろう。ディズニーリゾートに来て夢を買った人々は、そこにスラムやゲトーの存在があることを隠蔽されたまま自宅まで帰ることができるし、ゲトーの住人(映画で描かれるのは、ほとんどが覚醒剤の売人)は、死ぬまでに一度はディズニーランドに入りたい、等とは夢思っていない(というか、あらゆる意味ですべてが「それどころではない」緊張感と傷を負って生きている)。相互排除の力学と、知らぬが仏の諺は、全員をWIN WINにする。

 『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は、合衆国の得意技である、貧困者に労働を与えるための都市開発計画の名だが、世界でも屈指の観光地であり、中でも「世界で最もマジカルな場所」として知られる「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」を中心とした時の、周縁にひしめき合う、安モーテル群が舞台となっている。

 そして、このモーテル達は、実際のディズニー・ワールドのアトラクションの、名前はおろか、外観までそっくりに似せられているのである。

 スペースワールドやアラビアンナイト、マジックキャッスルといったアトラクションを模した、最低、一晩でも40ドルから借りられる格安モーテルの群れは、建造当初こそ観光客の家族利用が圧倒的だったのだろう、しかし、今ではホームレス家族という、キャンピングカーすら持たない貧困層の定住によって、観光客は訪れず、完全に半スラム化している(廃屋もいっぱい)。モーテルだけではない、アイスクリームカウンターやスーヴェニール・ショップもあり、周縁の第一層が、中心のガジェット的なレプリカなのである(一方で薬局や医者や理髪店もあり、タウン化している)。

 舞台の中心となるのは「マジックキャッスル」で、そこの管理人がウィレム・デフォーなのだが、あのウィレム・デフォーが、地味な顔の真面目な普通の人、に見えるほど、強烈な人々ばかりが住んでいる。本作の、表層から深層まで胸をえぐる、刺激的かつ重い痛み、そしてそれと共存する不思議なドリーミーさは、「スラムが、カラフルな魔法の国のレプリカ、その残骸である」というより、「中心と周縁」の両極端さが、隔絶されず、デザインの模倣というたった一点で液状化的に繋がっている、という、廃墟マニアなどにも届くであろう、特殊物件である事に依る。映画は、この事実を世界に向けて見せ付ける事に執心している。

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