『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』が浮き彫りにした、“続編映画”の在り方
続編『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』は、そのまま復讐に燃えるアレハンドロを主人公として物語が進んでいく。それは最初から良心の呵責に囚われず、倫理を度外視した内容が展開することを示している。本作の冒頭に現れるテロリストたちの自爆攻撃は、周辺にいた人々を老若男女問わずに殺傷し、懇願する母親や子どもを容赦なく吹き飛ばす。それを受け、CIA(アメリカ情報機関)は、取り調べのため容疑者におそろしい尋問を行う。「水責めはもう古い」とばかりに、容疑者自宅を上空から映したライブ映像を見せ、そこを爆撃し家族を殺すと脅すのである。国家の安全のためとはいえ、それはすでに悪魔の所業にすら達している。
それだけではない。アメリカ合衆国国防長官は、麻薬カルテルがテロリストを密入国させているという不確定な容疑を基に、カルテル支配者の末娘(16歳)を誘拐する作戦にゴーサインを出す。このように大国が怪物化していく描写は、フィクションではあるものの、いままでに報道されているCIAによる拷問の残虐さや、荒唐無稽にすら思える過去の特殊作戦の内容を知ると、あり得ないことではないと思わせる。そしてこの過激な描写は、不法入国した親子を引き離し拘束するという、2018年6月まで行われていたトランプ政権の政策を暗示しているようにも見える。現実のアメリカの姿に引っ張られるかたちで、映画の内容もさらに深刻化しているのだ。
だが、ここから意外にも、喪失したはずのヒューマニズムが立ち上ってくる。復讐心をいいように利用されてきたアレハンドロは、この悪魔的な作戦の犠牲になりつつある、憎いはずの麻薬組織支配者の娘を助けようとし始める。集団の狂気が個人の狂気を上回ったことで、ついにアレハンドロすら非人道的行為に追従することができなくなったのだ。常軌を逸したナチス政権が、ただ追従し命令を遂行するだけの真面目な兵士たちを大量殺戮者にしてしまったように、歪んでいく世界のなかで人間が人間であるためには、その狂気から逃れなければならない。本作が唯一の希望として描くのは、それが集団のなかで異端だと言われようと、リスクを抱えようとも、自分の良心に従おうとする勇気である。
前作で挫折を味わったケイトの優しさや自制心というものは、じつはここに来て、より緊迫した状況のなかで再び価値を持って浮かび上がってくる。ケイトはアレハンドロに銃を向けるも、どうしても引き金を引くことができなかった。その弱さが、本作でアレハンドロが少女を助けようとする未来へとつながっている。そして今度はその希望がメキシコ側から生まれているのである。その意味で本作の脚本は、前作のテーマをも変化させてしまったように感じられる。
この救いのない戦いに、一つの倫理的な解答を見出した本作には意義があるだろう。だが一方で、解答の提示は観客を安心させてしまうのも確かだ。良心の敗北というテーマや、地上を異世界のようにとらえた不気味な俯瞰撮影、そして出口のないやりきれなさを描き出した前作は、観客を息苦しい不安で圧迫し、ねじ伏せていた。その圧倒的な存在感に比べると、本作は比較的理解しやすく納得できるぶん、良い意味での異物感が取り去られてしまったように感じられる。