村上春樹作品の映画化のポイントは“会話”にあり 『ハナレイ・ベイ』はもっとも成功した作品に?
映画『トニー滝谷』では、会話は自然な言葉に置き換えられている。登場人物にとって不自然さがない台詞を工夫した形跡が見て取れる。一方『トニー滝谷』がユニークなのは、登場人物が演技の途中で突如ナレーションを始めるという意外なアイデアだ(たとえば劇中、「寒くなるといけないから、コートも持っていきなさい、とトニー滝谷は言った」というナレーションのような台詞を、演者である宮沢りえにカメラの前で言わせている)。これは村上作品の会話や文体の特徴を残しつつ、映画として成立させるための意表をついた手法なのだが、どこか演劇的な味わいを作品に加味していておもしろい。いかに村上作品を映像化するか、知恵を絞ったのだという印象を受けた。撮影の美しさもあいまって、公開当時も好評だったと記憶している。
『神の子どもたちはみな踊る』('10)は、米監督ロバート・ログバルが手がけ、ロサンゼルスを舞台にした物語に置き換えられた作品だ。台詞は全編英語だが、まったく違和感はない。かつて村上は、デビュー作『風の歌を聴け』を書く際、まず英語で書き進め、その後日本語に訳すという方法を取ったと説明している(『職業としての小説家』)。翻訳小説の文体にも影響を受けた台詞は、英語に訳しやすい性質があるだろう。また村上作品は、日本の文化や風土と密接に結びついた物語ではないため、場所を海外に置き換えても成立するのが特徴だ(世界的な読者を獲得している理由もそこにある)。こうした要素もあり、『神の子どもたちはみな踊る』は作品のムードをうまく解釈し、場所をアメリカに移しながら映画化に成功した作品だと言える。
一方、トラン・アン・ユンが監督した『ノルウェイの森』('10)は、村上作品の映画化では特異である。小説の会話をかなり忠実に台詞として再現した映画版『ノルウェイの森』は、村上が危惧した「口に出されるとリアルじゃない台詞」という問題に突き当たってしまっているように思えてならない。誕生日にプレゼントを渡す場面で、「開けていい?」「もちろん」と会話する男女を見ながら、妙なむずかゆさを感じてしまう。文章として読む会話は別物なのだ、という村上の指摘はおそらく正しい。個人的には、日本語の感覚がどうしてもしっくり来ないままであった。映像面では、大学構内を歩く主人公が学生運動の人の波に巻き込まれていくシーンなど、印象に残るショットも多い作品なだけに、なおさら会話で生じる独特のむずがゆさが気になってしまうフィルムであった。
また、ヒッチコックも『映画術』の中で述べているが、映画化に適しているのは短編小説だ。長編の情報量は映画のフォーマットに収まりきらない。『トニー滝谷』『神の子どもたちはみな踊る』『ハナレイ・ベイ』『納屋を焼く』はどれも短編であり、ゆえにコンパクトで的を得た作品となっている。長編小説は、映画化に適した物語の情報量を超えてしまっているのではないか。村上は長編をもっとも重要視する作家だが、映画化という観点からすれば、短編の方がより現実的であると思う。