2018年、日本映画はニューフェーズへ(中編)『寝ても覚めても』『きみの鳥はうたえる』の9月
「大きな」映画と「小さな」映画
世界の全的な傾向に目を向けると、いま「映画」最大の問題は、多様な映像環境の進化と乱立により、「映画」の定義そのものが揺らいでいることだ。それはインターネットが完全普及し、デジタルシネマが標準となった21世紀における映画のアイデンティティ・クライシスである。例えばYouTube動画は短編ドキュメンタリーとどう違うのか?とか、カンヌでも議論の対象となったNetflixのみの配信作は「映画」か否か?といった設問は幾らでも挙げることができるだろう。いまは劇場や映画祭のスクリーンで一定期間上映されるという流通回路に乗った動画を、主に「映画」と称しているに過ぎない。そして「映画らしさ」という受容イメージは、エジソンやリュミエール兄弟から100年以上、映画の歴史が積み重ねてきた共同幻想の上に成り立っていると断じても、決して言い過ぎではない。(参考:2018年、日本映画はニューフェーズへ(前編) 立教、大阪芸大の90~00年代、そしてポスト3.11)
しかしハリウッドの「大きな映画」なら、いまもって「映画らしさ」の担保は比較的容易だ。ディズニーランドやUSJのアトラクションと同様のVR技術を使っても、ひたすら快楽消費的な体感とは異なった「映画らしさ」への落とし込み――3Dや4DXなどの「横軸」で差異化することができる。例えばIMAX公開されたデイミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』(2016年)やクリストファー・ノーランの『ダンケルク』(2017年)、あるいは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)、さらに3Dの『ゼロ・グラビティ』(2013年)などは、VRアトラクションとの差異化の中で、より映画史との関連や従来ファンの快楽原則を手放さない形でグレードやチャームを高めた成果――象徴的に言えば、映画の20世紀性と21世紀性の狭間で強度を上げることにより「映画らしさ」を成立させた「大きな映画」の先端と言えるだろう。
対して日本が条件的に余儀なくされる「小さな映画」はどうか? まずは映画がMVやネット動画群などと一線を画す質とボリュームを獲得するための「横軸」の試みとして、隣接する他ジャンルの強度を借りて補強するという戦略が取られてきた。菊地成孔も先のテキストの中で、近年の日本映画で役者を駆動させてきたフォームは「演劇と漫画」だと指摘しており、非シネフィル的な「ここ数年の人気監督」として挙げられている園子温(1961年生まれ)と三池崇史(1960年生まれ)も、まさに前者が演劇、後者が漫画のフォームをがっちり組み込んで、自身の映画の強度を上げてきたのは間違いなかろう。