2018年、日本映画はニューフェーズへ(中編)『寝ても覚めても』『きみの鳥はうたえる』の9月

日本映画のニューフェーズ(中編)

「ニューシネフィル」の台頭

 この「横軸」問題を山下敦弘に当てはめるならば、彼の補強材となるのは「サブカル」全般と言える。いましろたかしの漫画から絶妙に脱力した作劇のヒントを得て、ボアダムスの音楽で余韻を攻勢的に締め括るといった具合に。同系の傾向や資質を最も端的に備える重要作家は、大根仁(1968年生まれ)である。彼の「サブカル」から養分を汲み取ってDJ的に作品を再構成する作法は、実はその教養主義的な側面においてもシネフィルと本質的な違いはほとんどない。ただ決定的に異なるのは、文体そのものがテレビやAV等とのハイブリッドであり、話法の質において「映画」の外へと受容が広めに開かれている点だ。

 しかしこの日本式「横軸」派の精鋭たちがある程度出揃った飽和状態とも言える現在――後続にはどういった道が残されているのか? そうなるとむしろ有効な選択肢は「横軸」より、映画史という「縦軸」から養分を汲み取る姿勢へと自動的にシフトチェンジされるだろう。こう書くとマーケティング的チョイスめいて嫌らしいが、そうではなく、必然的に映画の奥深さを縦に掘っていくタイプの強さが目立ってきたということだ。つまり100年強の歴史を参照した、純粋培養の映画文法が当たり前の形で「映画らしさ」として相対的に上がってきた。これが「ニュー・シネフィル」台頭の現象的な根っ子だと思う。しかも国産サブカルに多く軸足や出自を持つ日本式「横軸」派が、どうしてもドメスティックな表現に留まりがちなのに対し、「縦軸」派はピュアネスを湛えた「小さな映画」の先鋭として、アトラクション化するハリウッドのカウンターにも成り得る。すなわちその意味で世界性(国際性)も獲得しやすい。

 そして彼らがシネフィリー(映画愛)の中に閉じていかないのは、過去の映画から譲り受けた技法をあくまで「道具」として使うから。これはもしかしたら、小津安二郎が言うところの「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」イズムのニューモードでの復活かもしれない。昔なら撮影所システムで受け継がれた製法をインディペンデントの作家たちが独自に再発見して、自分たちの表現のために、自分たちのやり方とサイズで応用しようとしている。それは結果的に、伝統と時代性を融合させながら、オーガニック素材でこだわりのデニム作ってます、みたいな工房の立ち上がりにも似てくる。各々が身の丈の仕事場を構えて、良質の「小さな映画」をこつこつ作る。おそらくこれがいま、日本映画の一部エリアを覆う「ニュー・シネフィル」台頭の風景だと思う。

『きみの鳥はうたえる』の幸福感

 実は今年(2018年)の9月は、そんな「ニュー・シネフィル」派の現在を観察するのに格好の時期であった。というのも先述した濱口竜介(1978年生まれ)の新作『寝ても覚めても』と、三宅唱(1984年生まれ)の『きみの鳥はうたえる』が共に9月1日に全国公開されたからだ。このふたりが本潮流の代表的な作家のうちに数えられることには誰も異論はないだろう。

『きみの鳥はうたえる』(c)HAKODATE CINEMA IRIS

 筆者の素朴な印象を記すなら、彼らはほぼ同軸で対照的な個性として映っている。まず三宅唱は、基本的に「幸福感」を描く作家だと思う。『やくたたず』(2010年)や『Playback』(2012年)の基調音になっていたチーム男子的な部活感を、露骨かつ伸びやかに全面展開したのが『THE COCKPIT』(2014年)だ。マンションの小さな部屋でヒップホップクルーが1曲仕上げるまでの過程をドキュメントしたもの。コクピット空間を規定するスタンダード画面で、サンプラーをいじる指と仲間たちの提案や言葉から音楽が立ち上がってくる歓びの時間を観る者に共有させる。内容やスタイルには、ゴダールの『右側に気をつけろ』(1987年)や『映画史』(1988~1998年)に発想の素を求められるかもしれない。だがそのコンセプチュアルな方法意識が、むしろシンプルな日常の祝祭性を平易に盛り立てる。それが『きみの鳥はうたえる』になると、本人と地続きになるまでこなれさせた役を生きる男女3人の俳優のきらめきだけが映っているようだ。

『きみの鳥はうたえる』(c)HAKODATE CINEMA IRIS

 函館の街での傑出したナイトクラビングのパートが顕著なように、フリーハンドな有機性と柔らかさで「いい時間」を生成していく。物語的には「男2・女1」という、あえてタイトル群を挙げるまでもない青春映画の黄金形を装備しているが、それは佐藤泰志の原作小説からトレースしたテンプレートであって、演出レヴェルでは設定の強度に寄り掛からず、むしろそのコードを美しく循環させる形で、アンビエント・ミュージック的な生の波動が持続する。まさしくシネフィル性が技法や道具として機能した理想的な例であり、少なくとも映画に浸っている間、マニア的陥穽に導く参照先といったものは思い浮かばない。また柄本佑や染谷将太という、映画の生成に深い理解のある「ニュー・シネフィル俳優」(ガチで監督の映画的素養と渡り合える若手の役者が増えている……これぞ日本映画の最も重要な潮流のひとつと言ってもいい)との幸福なコラボレーションの成果でもあることも特筆すべきだろう。

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