三宅唱は“いつまでも続かない青春”をどう描いた? 『きみの鳥はうたえる』のただならぬ緊張感

 「僕」がアルバイト先の同僚、佐知子との愛の始まりを意識するシーン。アルバイトをさぼった「僕」は、夜の函館の街をあてどなく歩いてくる。道路の反対側へ渡ろうと画面左側にそれようとする。しかしなぜか「僕」はきびすを返し、そのまま画面右手の商店を覗きこむ。商店はどうやらもうつぶれて、テナント募集中となっているようだ。空白となった空き店舗を覗きこむ「僕」。そこに佐知子が偶然現れ、関係が始まるのだ。

 かつて筆者は当サイトにおける『アメリカン・スリープオーバー』評(参考:『イット・フォローズ』監督、幻の青春映画『アメリカン・スリープオーバー』の放つ無償の輝き)で、次のように書いたことがある。「青春映画とは、時限付きの映画である。時間制限もなくただダラダラと続く青春映画などロクなものではない。青春は時が限られているからこそ、無償の輝きを放つのではないか」。青春が時間制限なく、望むかぎり続いたらどうだろう。「僕」は「この夏がいつまでも続くような気がした」とうそぶくが、制限なしを念じる「僕」の呪文は始めから無効なのだ。進路を不意に変えて見せてまで、空白の商店跡を覗きこもうとする「僕」はすでに、この世界のゼロ記号と化している。そこに佐知子や静雄が来て、プラスやマイナスの痕跡を付け足していく。そのことによって「僕」というゼロ記号の座標が変わっていく。

 ゼロ記号になにがしかの電流を流すのは佐知子だ。空白の商店跡を眺める「僕」のヒジを佐知子は軽くつねってからいったん去って行く。この最初の出会いで「僕」はヒジをつねられ、映画の最後の方でもまたヒジをつねられる。この接触、ゼロ記号への電流に始まり、電流で終わる映画。電流によって入るスイッチは、制限なしの呪文の無効化だ。スイッチオン。カチ、カチ、カチ。人は死に向かってリズムを刻み出す。静雄は母(渡辺真起子)の病状悪化によって、一足早く「次の季節」へと足を踏み入れていった。

 僕(モノローグ)「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、こんどは僕が、あいつを通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。すると、僕は率直で気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」

 ここで「僕」自身が白状する「率直で気持ちのいい、空気のような男」というものこそ、ゼロ記号たる「僕」のゼロ宣言なのだろうか? いや、そうとも限るまい。いてもいなくてもどちらでもいいような「空気」などではなく、電流を通し、媒介となり、ノイズとなり、異様な空疎さをたたえた冒頭の空き店舗のように、ただならぬ妖気を漂わせ、座標軸をすべっていく存在。そうしたものこそ「僕」のゼロ性なのだ。そのゼロぶりを気味の悪い空疎の面影として、「僕たち」は「僕」のことを感知しなければならないのではないか。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『きみの鳥はうたえる』
新宿武蔵野館、渋谷ユーロスペースほかにて公開中
出演:柄本佑、石橋静河、染谷将太、足立智充、山本亜依、柴田貴哉、水間ロン、OMSB、Hi’Spec、渡辺真起子、萩原聖人
脚本・監督:三宅唱
原作:佐藤泰志(『きみの鳥はうたえる』)
製作:函館シネマアイリス
制作:Pigdom
配給:コピアポア・フィルム、函館シネマアイリス
2018年/106分/2.35/カラー/5.1ch
(c)HAKODATE CINEMA IRIS
公式サイト:kiminotori.com

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