異形の者たちの愛の物語『シェイプ・オブ・ウォーター』は、戦い続ける人々の心に染み入る

 過去のトラウマから声を出すことができない女性イライザ(サリー・ホーキンス)と、南米の奥地にある川から無理やり連れて来られた不思議な生き物=”彼”(ダグ・ジョーンズ)が惹かれ合う。ダークで美しい映像世界で描いた『シェイプ・オブ・ウォーター』は、1962年、宇宙に目が向き、将来への希望もありつつ冷戦や人種差別など不穏な空気も強かった時代を背景に、水のごとく、いかようにも変化する愛の形を描いたラブストーリー。人間と異形のものの恋は、さして珍しい設定ではないだろうが、おとぎ話の体裁をとっている点が効いている。

 と言っても、結局のところは文字通りの美男美女が立派なお城で暮らすハッピーエンドで終わる『美女と野獣』のような、従来のおとぎ話に真っ向から異を唱える作り。性の生々しさも伴う、不気味でグロテスクでスリリングな作風に加えて、映画の結末は現代の観客の胸にダイレクトに訴えかけてくる。お金があること、見た目が美しいこと、文明を享受して良い暮らしをすることで、人は本当に幸せになれるのか? ”彼”の世界である川の中は、暗くて、冷たくて、不気味に感じられるかもしれないが、貧困や差別、争いや暴力に満ちたこの世界よりも、水の中に生きることの方が不幸だと言い切れるのか。どんな形であろうとも、愛の形に正解不正解などないことを伝える愛の物語は、むしろこちらの方が正しいおとぎ話なんじゃないのかと思わされる。

 同時に、本作はあえて60年代を舞台にしながらトランプの時代を反映したメッセージ性も色濃い。差別や偏見にさらされ、自分は社会のはみ出し者だと感じて居心地の悪い思いをしているイライザや友人ゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)、イライザの隣人ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)、そして故郷から引き離され、知性も感情も、痛みさえも感じない「物」として扱われる”彼”も含めて、全員がアウトサイダーだ。障害者として、黒人女性として、セクシャリティを隠した時代に取り残された者として、そして人間にとっての異形の者として虐げられる彼らは、まさしくトランプの時代の声をあげることができない人々の姿である。

 一方、真のモンスターとして描かれているのが、実験・研究の対象として”彼”を虐待するエリート軍人ストリックランド(マイケル・シャノン)である。自分とは異なる存在を忌み嫌い、排除し、痛めつけても当然だと考える人間の傲慢さを凝縮したような、わかりやすい悪役。常に弱者や異形のものに心を寄せてきたデル・トロは、このストリックランドにこそ「自伝的な部分がある」と語っている点が興味深い。

 体制や時代の犠牲者として位置づけられている哀れなストリックランドは、登場シーンからして心が壊れてしまっていることは明白だ。トイレを掃除するイライザとゼルダの前で、これみよがしに用を足したり、イライザが絶対に自分に服従する存在としてセクハラ・パワハラを当然のように行う姿には、私見ではあるが、昨年秋から騒動が収まらないハリウッドに怪物として君臨し続けたハーヴェイ・ワインスタインを思い出さずにはいられない。だが、デル・トロはストリックランドを取り巻く非情な体制、組織の構造について、「映画ビジネスとはそういう場所だ」と語り同情を示している。ある日突然、あっけなく切り捨てられる駒のような存在としてのストリックランドに自分を重ね合わせているのだろう。

 デル・トロとワインスタインといえば、昨年、ロンドン・フィルム・フェスティバルで参加した座談会で、1998年に父親が誘拐されるという悪夢のような事件を体験したが、ワインスタイン兄弟との『ミミック』でのアメリカでの初仕事の方がよりタチが悪いと語ったことが話題となった。筋の通らない要求の多くに屈せざるを得なかったことは、デル・トロにとってどれほどの苦痛であっただろう。別の映画祭に参加した際には、「映画界で金を持っている奴はみんなクズ野郎だ」としてハリウッドの大物たちについて痛烈に批判した。そうしたことから、本作は低予算におさえ、クリエイティビティにおける自由を確保し、従来なら「地味すぎる」と言われるようなホーキンスをヒロインに抜擢するなど、思い通りのキャスティングで当て書きするという、監督にとってある意味で理想の作品作りに成功した(スペシャルサンクスとしてジェームズ・キャメロンの名前があることにも泣ける)。映画産業が綺麗事では成り立たないのも理解できるが、映画とは本来、そのように作られるべきではないのか。イライザたちによるストリックランドに対する反乱は、そのまま映画産業の中で闘い続けるデル・トロの姿でもあるのかもしれない。

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