『マイティ・ソー バトルロイヤル』はマーベル映画にとって危険な存在に? 路線変更の背景を考察

 だからこそ、その一方で本作は、じつはマーベル映画にとって危険な存在になっているのではないかという気もする。『マイティ・ソー』第一作は、ベテランのケネス・ブラナーが監督を務めた。ブラナーはシェイクスピア俳優でもあるため、シェイクスピア劇のような重厚感を、北欧神話の神の物語でもある『マイティ・ソー』に加えようというねらいだろう。この作品が面白いのは、そんな北欧神話の神が、アメリカのド田舎で高貴に振る舞ったり、庶民的なダイナーで食事したりする、そのギャップを楽しむという部分があったというところだ。

 そこにあるのは、「向こうの世界」を描きながらも、「我々の世界」とのつながりを絶えず意識し、リアリティや生活感覚を失わないようにするという意志である。これがあるために、『マイティ・ソー』第一作は当時広く受け入れられ、シリーズ化までされたといえる。はじめからいきなり『マイティ・ソー バトルロイヤル』のような内容を映画化していたとすれば、その荒唐無稽な内容は観客を限定した、あくまでアメコミファンを喜ばせるコアな作品になっていただろう。

 だから、「我々の世界」から切り離された内容である本作のヒットというのは、アメコミの世界観が、マーベル映画によって広く浸透した結果であることは確かだ。その意味ではマーベル映画の製作を統括する、自身もアメコミオタクであるプロデューサー、ケヴィン・ファイギの観客への啓蒙というのは、「MCU」という仕掛けによって順調に達成されているように見える。これによって、本作や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のようなタイプのヒーロー映画は、主流になっていく可能性すらある。

 しかし、近年のアメコミ映画は、多くの観客が考えていたような、「アメコミは荒唐無稽なものだ」という後ろ向きなイメージを、我々の現実的な感覚に落とし込み、その存在価値を見いだしていたはずだ。「アメコミの世界に回帰した」という声も聞く本作だが、そもそもアメリカン・コミック、とりわけマーベル作品というのは、本作にも当然のようにゲスト出演している、作家スタン・リーを中心とした尽力によって、文学や実写映画などの内容を組み込みながら普遍性を獲得していった歴史がある。設定が荒唐無稽であるからこそ、それを現実から遊離させないために、リアリティという重りをつけるのだ。

 ヴィラン(悪役)である「死の女神ヘラ」は、圧倒的なパワーによってアスガルドの軍をほんの数分で壊滅させてしまうが、その描写はやはり大味に感じてしまうし、第一作の冒頭で描かれた、膨大な人口が存在していたはずの広大なアスガルドは、本作では過疎化した村くらいに規模が縮小してしまったように見える。全体としては豪快な力技によってダイナミックに描いていく本作の作風は、その代償として犠牲になっている部分も少なくないのである。

 本作や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のような作品であっても、リアリティをつなぎとめる方法はある。それは、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』のように、荒唐無稽な設定や演出に膨大な時間と熱量と情熱を注ぎ、映画に登場しない部分も含めて、現実としか思えない「世界そのもの」を構築してしまうという手法である。そしてそこには、宮崎駿監督が「才能がある人間は、ファンタジーを作るべき」だという意味のことを言ったように、卓越した「クリエイティヴィティ(創造力)」を必要とすることも確かである。

 とはいえ、本作は全てギャグや絵空事だけで作られているというわけではない。驚かされるのは、輝かしい正義の国だと言い伝えられてきたアスガルドの歴史が「全部嘘だった」ことが明かされる場面である。それは、アメリカの建国、独立の過程でも、血塗られた犠牲が存在していたという欺瞞を暴く皮肉になっている。この場面は、ギャグとして描かれてはいなかったように、私には思える。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『マイティ・ソー バトルロイヤル』
全国公開中
監督:タイカ・ワイティティ
製作:ケヴィン・ファイギ
出演:クリス・ヘムズワース、トム・ヒドルストン、ケイト・ブランシェット、マーク・ラファロ、アンソニー・ホプキンスほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
(c)Marvel Studios 2017
公式サイト:MARVEL-JAPAN.JP/THOR_B

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