松崎健夫の『スウィート17モンスター』評:大人と若者、視点の違いで見え方が変わる秀逸な構成

松崎健夫の『スウィート17モンスター』評

 1980年代以降のハリウッド青春映画では、<スクールカースト>と呼ばれる学校内での階層が如実に描かれるようになったという経緯がある。その代表格として挙げられるのが、『すてきな片想い』(84)や『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(86)、『恋しくて』(87)など、ジョン・ヒューズが脚本を手掛けた作品群。これらの作品の主人公は、<スクールカースト>の下層側に位置するという共通点があった。彼らは自らの境遇をひがみ、<スクールカースト>の上層にいる人気者たちを忌むべき存在として認識。決っしてお互いが「相容れない」或いは「相違がある」と描くことが基本となっていた。つまり、「大人は判ってくれない」だけでなく、そもそもの問題が、同年代の間に介在する<階層>にもあるのだと描いていたのであった。

 当時のハリウッド青春映画では、<スクールカースト>の下層に位置する者たちは経済的にも恵まれておらず、対して上層に位置する者たちは往々にして富裕層であり、彼らは概して「いけ好かない奴」として描かれていた。当然のごとく、彼らが「下層に位置する同級生たちを見下す」という対立構造を生み出していたのも特徴だった。

 先述のジョン・ヒューズが監督・脚本・製作を兼任した『ブレックファスト・クラブ』(85)では、スポーツマン、秀才、不良、お嬢様、ゴス、という本来であれば全く接点のない5人の男女が登場する。この映画では、<スクールカースト>の縮図のような設定を持った5人に対して、「懲罰登校」という接点を持たせることで、階層の異なる者同士が次第にお互いを理解してゆくという姿を描いた点で異色だった。

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 『スウィート17モンスター』では、主人公・ネイディーンが<スクールカースト>の下層、彼女の兄・ダリアンは上層に位置していることが窺える。その設定によって、ダリアンはこれまでのハリウッド青春映画のセオリー通り、当初は「いけ好かない男」として描かれている。同様に、ウディ・ハレルソン演じる教師もまた、当初は「若者に理解のない大人」として描かれている。

 ここまでは、これまでのハリウッド青春映画群と同じような描かれ方なのだが、『スウィート17モンスター』が少し異なった趣を持っているのは、物語が進むうち、其々の立場における其々の事情や想いが明らかになってゆくという点にある。ダリアンは決っして「いけ好かない」兄などではなく、むしろ思慮深い兄であることが描かれ、ネイディーンにとっての根本的な問題が、<スクールカースト>における他者にあるわけではないことも判ってくる。さらには、教師の姿を真摯に描いてゆくことで、「大人は判ってくれない」のではなく、「大人は判ろうとしている」ことも提示してゆく。

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 そのように描くことで、若い観客は次第にネイディーンのこじらせぶりに違和感を覚えはじめ、大人の観客は(過去のハリウッド青春映画群を参照した)ステレオタイプな物事の見方をしている己の思考の間違いに気付いてゆくという構成になっているのである。

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