格差問題が浮き彫りにする“人間の値打ち”とは? 世界中で支持されたイタリア社会派映画を観る
『グレート・ビューティー/追憶のローマ』などを制し、イタリア・アカデミー賞と呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の第58回作品賞を獲ったのは、『人間の値打ち』という、アメリカの同名小説を映画化した群像劇だった。「人間の値打ち」という題名から、「説教くさい、きれいごとの話か…」と思って油断していると、いきなり死角から角材でぶん殴られるような衝撃を与えられる辛辣な作品である。きれいごとどころか、現代社会の酷薄な現状や、人間の本音とドス黒い欲望までをも次々に目の当たりにさせられるのだ。
本作は、ある冬の夜に起こった轢き逃げ事件を中心に、『パルプ・フィクション』や、アスガー・ファルハディ監督の『別離』のように、同じ時間のなかで起こる様々な出来事を、複数の人間の視点から描いていく。ミラノ郊外、コモ湖のほとりの広大な敷地に建つ豪邸に住んでいる富豪家族。上流階級になんとか仲間入りを果たし大金をつかもうとする、不動産業を営む男の一家。そしてさびれた集合住宅に住んでいる犯罪歴のある青年。事件の真犯人が明らかになっていく過程で、北イタリアの上流、中流、下流という、それぞれの経済的階層に属する人々の真実の姿をも浮き彫りにされていく。
イタリア・アカデミー賞7冠達成をはじめ、世界で40以上の受賞を果たすほど本作が支持された理由の一つは、格差問題を描きながらも、高所得者を「悪」、低所得者を「善」とするような、社会派作品にありがちな単純な図式に収まっていないという点が大きいだろう。彼らはそれぞれに悩みや秘密を持ち、またそれぞれに人生を意義あるものにしようとあがいている。登場人物に過度な思い入れをせず、一歩、二歩引いて「演劇的な」距離をとった演出は、富豪も貧民も、立場や生活は違えど同じ人間に過ぎないということを観客に印象づける。この対象からはなれた、ときに喜劇的にもなる演劇性というのは、本作の監督パオロ・ヴィルズィの作風でもある。
カーラ・ブルーニの姉で、映画監督としてのキャリアもある、数々のゴシップで有名な女優、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキが本作で見事に演じているのが、主人公の一人である大富豪夫人カルラだ。カルラは不自由のない生活をしながらも、何か空虚さを感じていた。投資による金儲けやメンツのことだけしか頭になく、家族や自分に理解を示さない夫に対する不満も密かに募らせている。そんな彼女が偶然、崩れ落ちそうになっている劇場の前を通りかかる。県に一つしかないという演劇のための劇場は、修理するあてもなくこの世から姿を消そうとしていた。若い頃に女優を目指していたカルラは、財力を利用して劇場再建事業を起こすことを思いつく。
リーマン・ショック以降、イタリアは欧州でもとくに経済が落ち込んでいる国である。銀行の不良債権と国の借金によって、国内全体の雰囲気が冷え込み、雇用状況も改善の兆しが見えない。そんな状況において、まず見捨てられていくのが、経済にあまり貢献することのできない「文化」だというのは、非常に身につまされるリアリティある表現である。ここで、ある種の「懐かしいにおい」が漂ってくる。それは1940年代から50年代にかけて、イタリアで起こった芸術運動「ネオレアリズモ」である。この運動は、映画や小説によって、荒廃したイタリアの真実の姿を、市井などの生活に根ざした視点から描き、地に足のついたリアリズムによって社会に好影響を与えていこうというものだった。そして、かつての日本映画にも、やはりこのような社会的なテーマを、より情熱的に表現していた時期があった。