格差問題が浮き彫りにする“人間の値打ち”とは? 世界中で支持されたイタリア社会派映画を観る
面白いのは、パオロ・ヴィルズィ監督はきわめて自覚的に、ある種ネオレアリズモ的なテーマを本作で蘇らせようとしているということだ。本作のカルラが劇場再建のために、批評家や劇作家、経営のプロなど有識者が集まる会議を開くシーンがある。彼ら業界人は、口々に演劇が斜陽化していく現状について語る。
「文芸的なテーマを劇場で演じるなんて、いまどき流行らない」
「仕事で疲れてる客は、難しい話など理解できるはずがない」
「演劇はもう死んでいる」
ここで挙げられる意見は、イタリアを含めた現代社会の文化的な劣化の批判でもあるが、これはそのまま、本作の前時代性を自嘲的に指摘するものにもなっている。
ルキノ・ヴィスコンティ監督によるネオレアリズモの代表的作品『揺れる大地』は、シチリア島の漁村で貧しい生活にあえぐ人々をドキュメンタリー風に撮った映画だ。同じくシチリア島を舞台にした作品『ニュー・シネマ・パラダイス』では、村の映画館で上映される『揺れる大地』を観た島民が、すっかり退屈し「休みなく働けということを言いたいんだな」と感想を述べ、作り手が労働者に向けて伝えたかった内容が、実際の島の労働者には全く伝わっていないという皮肉的なシーンがあった。
このような構図というのは、現代もやはり変わっていないだろう。映画業界は内容のある中規模の作品を避け、過度な娯楽化が進む傾向にある。パオロ・ヴィルズィ監督は、それでも、いや、それだからこそ現代に、人間や社会の切実な問題を描く作品が必要なのだということを、ここで宣言しているように思える。しかし、意外にも『人間の値打ち』は、イタリアでも新鮮なものとして評価されている。それは、このような作品が撮られなくなってきたことの反動的な現象でもあるだろう。
ヴィルズィ監督は、ある過去作でも労働者の厳しい現状を描いているが、そこで、人間に必要なものは「哲学」であるという、感動的な結論に達している。一見、実利がなく無駄に思えるものほど、人間にとって必要なこともあるはずだ。貧富の差はあっても、そういう人間の本質的な部分は何も変わらない。上流階級にいる優雅な人間たちも、ひとたび地位を脅かされるだけで、狂態をさらし奴隷同然になってしまうこともある。その古めかしくも力強い社会観や人間観が息づいた『人間の値打ち』の表現は、それが根源的であるがゆえに、観客の心を深い地点で揺さぶる力を内在しているはずである。それが本作を、数ある映画作品のなかでも真に観るべき値打ちのある映画にしているのだ。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。
■公開情報
『人間の値打ち』
監督・脚本:パオロ・ヴィルズィ
原作:スティーヴン・アミドン「Human Capital」
出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、ファブリツィオ・ベンティボリオ、マティルデ・ジョリ、ファブリツィオ・ジフーニ、ヴァレリア・ゴリノ、ルイジ・ロ・カーショ
2013年/イタリア/109分
配給:シンカ
参考:neuchi-movie.com