パレスチナの少年が世界的歌手へと“駆け上がる”まで 『歌声に乗った少年』が示すアラブの希望

 パレスチナ、ガザ地区。広場の片隅に自分たちより明らかに年上の少年たちを相手に一枚のコイン争奪戦をやり合う姉弟がいる。弟が敵の股下からひょいと投げたコインをすかさずキャッチしてみせる姉。ピタリと息を合わせる姉弟はその場から走り去り、逃走劇が始まる。息つく暇もなくパレスチナの自治区を駆け回る二人は難なく逃げ果せる。わたしたち観客は冒頭から、リズミカルな画面連鎖による純度の高い「活劇」を楽しむことができる。

 

 かつて、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手としてフランス映画界を牽引したジャン=リュック・ゴダールは、彼ら若きフランス人作家たちに大きな影響を及ぼしたロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(1954)を観て、「男と女と自動車があれば映画が撮れる」ということを学び、処女作『勝手にしやがれ』(1959)を撮り上げたが、『オマールの壁』(2013)のハニ・アブ・アサドの最新作『歌声にのった少年』(2015)は、「少年が走る」だけで事足りてしまう。それは単純であるが故に、生々しい映画的イメージを息づかせてしまうのである。

 映画が「運動」を捉えるメディアだとすれば、「走る人」ほど恰好の被写体となるものも他になく、ましてそれが「子ども」となると、天真爛漫な彼らがそこら中を走り回らないはずがないだろう。例えば、姉たちと組んだバンドの楽器購入資金集めのために開いた露店から焼き魚が盗まれ、自転車で逃走する犯人を主人公ムハンマドが走って追いかけるシーンがほんとうに素晴らしい。一心に走ってきたムハンマドがふと足をとめ、遠くの犯人を見つめる表情があまりにも雄弁なのである。彼がパレスチナのガザ地区に生きる身で、常に死を身近に感じながら暮らしているからなのか、その真摯なまなざしがわたしたちに深く語りかけてくる。「走ること」に意識的すぎるくらい意識的なアサド監督は被写体の一瞬の表情を捉えることも決して忘れないのだ。

 

 しかしながら、この少年がいよいよ「走ること」をやめてしまう時がくる。それは最愛の姉の死によってであり、以後彼は姉を救えなかったことを悔やんで、歌うこともやめてしまう。そうして少年は青年となる。そこには姉とスター歌手になって「カイロのオペラハウスに出る」という想いを抱いていたムハンマドの姿はもうなく、うす髭を生やし、大学の学費を稼ぐためにタクシーを運転する青年がうつるばかりである。だが、姉の肉体がこの世から消えてしまったことによって、ムハンマドの奇跡の歌声も同時に潰えてしまったというのだろうか。

 

 否と、おもむろに首をふるアサド監督は、ここでかつて姉と同じ病にかかり、共に透析治療を続けた少女—今では麗しい姿の女性になっている!—を再び登場させ、ムハンマドが運転するタクシーに乗せる。彼女はムハンマドに昔のように歌をうたってほしいと頼み、ムハンマドは渋々歌い始める。少年の頃と変わらぬ歌声がわたしたちをアラビアの異世界へと誘い、画面は不思議な魅力で包まれる。その余波は後部座席にまで伝わり、美しい彼女の髪が外から吹き込む風に靡く。さらにはガザの倒壊した街並が車窓風景として繋がれ、ムハンマドの歌声によってあらゆる表象が一瞬のうちに結ばれる。こういうところに映画作家ハニ・アブ・アサドのイスラエル人としての「アクチュアリティ」を垣間みることができるのだが、夢を捨てた青年は、この瓦礫の山々の中にもう一度希望の光を見出すことになるのである。

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