『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』ーー 最新アニメ映画の音楽、その傾向と問題点について

(c)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会

 RADWIMPSに4つの主題歌と劇伴を一任した『君の名は。』の大胆さに比べると、『聲の形』の音楽の使い方はこれまでの定型に収まるものである。つまり、まるでテレビのアニメ作品のようにオープニングテーマと劇伴とエンディングテーマがそれぞれ完全に独立している。

 まず、映画の主題歌という位置付けにあるaikoの「恋をしたのは」。aiko自身が原作『聲の形』の大ファンで「映画のそばにずっといられる歌をうたいたい」(公式プレスより)と語っているこの曲だが、そこはJポップ界屈指の強固な作家性を持つシンガー・ソングライター。本編の余韻とともにエンドロールに流れる主題歌としての役割は十全に果たしつつも、aikoのディスコグラフィーにおいては「通常運転」と言うしかない普遍的なラブソングで、それはCDのセールスへの影響においても同様。そもそも、この時代においてaikoほど安定したシングルのセールスを記録し続けている女性シンガーはいないわけで、作品にとってもaikoにとっても多少プラスになっているのは間違いのないところだろうが、目に見えてわかりやすい化学反応を生みにくいのがaikoのaikoたる所以だ。

 劇伴を手がけているのは、電気グルーヴや石野卓球との継続的な仕事でも知られ、今や日本のエレクトロニック・ミュージックを代表するクリエイターの一人であるagraphこと牛尾憲輔。『聲の形』を観ていて最も感銘を受けたのは、実は牛尾の非常に繊細な音作りだった。ジャンキーXLやデヴィッド・ホルムズを筆頭に、今やハリウッドでもエレクトロニック・ミュージック界出身のクリエイターが劇伴の担い手として大いに活躍をしているが、そこで求められがちなのは観客のアドレナリンを刺激するビートのアタック感の強さや音圧。しかし、『聲の形』における牛尾の仕事は、エレクトロニック・ミュージックの作り手ならではのロジカルな音の配置や、選び抜かれた音色による緻密な音響設計が特徴的で、これまでのいわゆる「電子音楽家の手がけた劇伴」のイメージを大きく更新するものだ。

 『聲の形』の山田尚子監督はもともとagraphの熱心なリスナーで、今回の劇伴制作に関する牛尾憲輔のインタビューを読むと、新海誠監督とRADWIMPSとの「互いの作品への精神的なシンパシー」とはまた違った意味で、かなり技術的でディープな共同作業が行われたようだ。特に感心したのは、牛尾が『聲の形』のテーマである聴覚障害についてとことんリサーチして、補聴器のS/N比の問題から生じるノイズを、ピアノの打鍵ノイズ、離鍵ノイズ、椅子や共鳴板の軋む音などをコントロールすることで表現したということ。これはサンプリング・ミュージックの世界に親しんできた音楽家じゃないとなかなか突き詰められない領域で、監督の特定のミュージシャンへの思い入れと作品的必然性が見事に一致した成功例と言えるだろう。

 しかし、そんな監督の特定のミュージシャンへの思い入れが空回りしているとしか思えないのが、オープニングテーマとして流れるThe Who「My Generation」だ。ロックファンならば知らない人はいない、The Whoによる1964年のこの正真正銘のロック・クラシックが、作品の導入部を終えたあと、いきなりテレビのアニメ番組のような体裁のオープニングカットとともに流れ始めた時は、正直、面食らうしかなかった。聞くところによると山田監督はThe Whoの大ファンで、歌詞を拡大解釈すれば、まぁ、作品と近からず遠からず、でもやっぱり近からずといった内容なのだが、それ以前に、やはりここは作品全体の世界、特に牛尾と共に丁寧に構築した作品本編の音世界を、冒頭から台無しにしていたと言わざるをえない。

 また、さらに根本的なことを指摘すると、「そもそも映画のオープニングに歌モノの主題歌は必要か?」という問題に突き当たる。アニメ界にはアニメ界の流儀があって、多くのアニメ映画がオープニングテーマを当然のように入れるのは、テレビアニメのフォーマットに由来しているのはもちろん承知している。しかし、これだけ一般の観客層にアニメ映画が浸透するようになった今、そろそろ一般映画の流儀に寄り添ったほうがスマートなんじゃないかと思うし、それこそ日本のほとんどの実写映画よりもアニメ映画の方がポテンシャルを持つ、海外マーケットにおいてもより受け入れられやすくなると思うのだ。こういうことを言うと「海外にも『007』みたいな映画だってあるじゃないか」と反論されるかもしれないが、あれはシリーズの歴史と伝統を守ることが至上命令とされている本当に特殊なシリーズですからね。オープニングテーマではなく、オープニングで主題歌の歌モノが流れるというのが、映画にとってどれだけ異様なものであるかということに、作り手はもっと自覚的になった方がいい。

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