『君の名は。』『聲の形』『この世界の片隅に』ーー 最新アニメ映画の音楽、その傾向と問題点について

 実写映画の批評には実写映画の批評の方法があり、アニメ映画の批評にはアニメ映画の批評の方法がある。別に、どっちもやるのがいけないなんてことはないけれど、実写映画の歴史やその批評体系を意識的にとらえてきた一人としては、アニメ映画の批評には迂闊に手を出そうとは思えない。そりゃあ、物語や状況を論じることはできるけど、それは厳密に言えば映画の批評ではないので。しかし、「映画の音楽」に関してそれなりに一家言ある立場から、今年の夏以降に立て続けに公開された/されるいくつかの日本のアニメ映画の「音楽の使い方」について、いろいろと思うところがたまってきてしまった。というわけで、ここでは「アニメ映画の音楽」に焦点を絞って論考をすすめていきたい。

(c)2016「君の名は。」製作委員会

 まず、なにはともあれ『君の名は。』である。夏前に試写で観たタイミングですっかり心を奪われ、大ヒット作になることも確信したが(もちろん、興収100億を超える国民的映画になるとまでは思わなかったけど)、そこで唯一、小骨が喉に刺さったような感覚が拭えなかったのがRADWIMPSの4つの主題歌の使い方だった。

 古今東西のあらゆる作品を確認してもらえばわかるが、映画の中での歌モノの使い方には大きく二つの原則がある。一つは、(特に主人公クラスの)登場人物が何かを喋っている時に歌モノの歌詞の部分は流さないということ。これはテレビドラマでも同じで、鈴木保奈美の「カンチ!」という呼び声を合図に、「ラブ・ストーリーは突然に」の佐橋佳幸が爪弾くギターのイントロが鳴りだし、小田和正が歌い出す頃には織田裕二が無言で当惑する顔をアップで画面に映す。あれが、あらゆるドラマものの映像作品演出における不文律である(例が古いな)。

 もう一つの原則は、それでもどうしても登場人物が喋っている時に歌モノを流したいならば(正直言って、そこまでその行為に執着する作り手の気持ちが理解できないが)、普通はミキシング卓の「セリフのツマミ」か「歌モノのツマミ」のどちらかを下げるものだ(それ以前に、原曲の編曲やミックス・バランスや構成にまで手をいれることも多々ある)。そうすれば、観客は「あぁ、ここではセリフに集中すればいいんだな」とか「あぁ、ここではセリフは聞き取れなくていいんだな」とかがわかるわけだ。

 『君の名は。』を観ていて気持ちが悪かったのは、まさにその「セリフに集中していいのか」「しなくていいのか」がわからないところだった。ただでさえRADWIMPSの曲は音楽全体における歌詞の比重が高く、また歌詞の言葉数自体も非常に多い。新海誠監督との綿密な打ち合わせによって制作されたという、それぞれの曲の歌詞にしっかり耳を傾けようとすると、作品のセリフや状況音が邪魔をし、ストーリーをしっかり追おうとすると、野田洋次郎の歌声が邪魔をする。それが、1時間47分の映画で4回繰り返される。

 もっとも、『君の名は。』の圧倒的な興収や動員は、このような少数意見は情報処理能力が低い耳の持ち主による難癖であることを証明している。映画から生まれて、今では意味が一人歩きしているあの格言、「Don’t think, feel」(考えるな、感じろ)ってな具合で、多くの観客はあのセリフと歌モノが渾然一体となった作品からフィーリングそのものを感じ取っているのだろう。ちなみに、あの言葉は高校で哲学の先生をするくらいインテリだったブルース・リーのセリフだから言葉に重みがあったんだけどね。

 作品を観た後に新海監督のインタビューを見聞きすると、『君の名は。』において野田洋次郎の声は、登場人物の瀧、三葉と並ぶ3人目の主人公の声なのだという。さらには「ミュージカルくらいのつもりで作った」とまで語っている。なるほど、『君の名は。』は「映画=主、音楽=従」の関係にある普通の映画ではなく、映画と音楽に主従関係のない「ミュージカル」だったのだ。そうならそうと、最初から言ってくれればいいのに! そう考えると、本作が一昨年の『アナ雪』以来のメガヒットとなっていることにも合点がいく。日本人は根本的にミュージカルが大好きだ。ただし、ミュージカル映画の名門ディズニー『アナ雪』が当然のようにそうであったように、そして『君の名は。』がそうであったように、そこには映画の作り手と音楽の作り手の一心同体感が不可欠である。単純に人気があるからというだけで、そのバンドの歌モノを『君の名は。』みたいにガンガン本編中に使っていったら大事故になると、今から『君の名は。』フォロワー予備軍には釘を刺しておきたい。

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