山田尚子監督は“映画作家”の名にふさわしい存在だ 映画『聲の形』の演出法を分析
映画作家とはどんな人物を指すだろうか。ヌーヴェル・ヴァーグを生んだことで知られるカイエ・デュ・シネマの批評家たちは、アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスを真の映画作家と見なした。この2人は職人肌の娯楽映画の監督であるが、どんな作品でも監督の個性や匂いのようなものが刻印されている。
声高に主張を掲げずとも、刻印される何かを持ちうる映画監督を映画作家と呼ぶのなら、山田尚子監督はそう呼ばれるにふさわしい存在だと『聲の形』で証明した。過去の作品とはまるで異なる雰囲気の作品でありながら、あらゆるシーンに山田尚子の刻印がある。
ほんわかとした平和な世界の可愛い女の子の物語である『けいおん!』や『たまこラブストーリー』で人気を博した山田監督が、いじめとディスコミュニケーションを中心に息苦しい世界を描くと聞いた時は驚いた。『聲の形』で山田監督は、今まで自身が描いてきた世界とは180度真逆の世界と言ってもいい物語を、原作の世界を損なうこともなく、自らのスタイルで描くことに成功した。
銀幕への憧れとカメラの存在感
彼女の出世作である『けいおん!』の劇場版が決まった時、山田監督は「銀幕に憧れを抱いていた」ので、ふたつ返事で引き受けたとキネマ旬報2011年12月号で語っている。その「憧れ」は単なるステータスとしての劇場版という意味ではなく、彼女の作劇スタイルに大きな影響を与えたものへの尊敬の意味もあるのだろう。
山田監督の演出は、実写映画さながらにカメラの存在を意識させるものだ。アニメはすべて絵で描かれたものなので、物理的なカメラの制約から解き放たれた絵作りを志向することも可能だが、山田監督は敢えてカメラの枷を個性に変えている。アニメではよくある、人物にも背景にも画面上全てにフォーカスがあたる「パン・フォーカス」を極力避け、カメラの被写界深度(レンズのフォーカスがあたる部分)を常に意識したカットを作っている。山田監督はフォーカス送りも多用する。実写作品ではごく当たり前の技法だが、アニメでそれを多用する監督は珍しい。さらには手持ちカメラのような揺れるカットも数多く使用している。
『たまこラブストーリー』で、もち蔵がたまこに告白するシーンは、特に山田監督の実写的演出のこだわりが見て取れるシーンだ。川にいる二人を望遠レンズで捉え、望遠ゆえの微妙なカメラの揺れが、二人の心情と見事にリンクしていた。さらには、いざもち蔵が告白する瞬間に大きく動く時、一瞬だけフォーカスがずれるなどの演出をしている。オートフォーカスモードで素早く動くものを撮影する時、カメラが一瞬ぼやける現象を経験したことのある人もいるだろうが、あんな感じだ。あるいは望遠なので被写界深度が狭いため、一瞬だけもち蔵がフォーカス外に出てしまったということかもしれない。いずれにせよ、アニメなら本来そんなことをしなくてもいいことを敢えて手をかけて行い、実在感を作り出すのが山田流演出だ。
『たまこラブストーリー』に続き、彼女がシリーズ演出として携わり重要な役割を果たした『響け!ユーフォニアム』では、カメラ演出はさらに洗練されている。手持ちカメラの揺れもより大きく揺らせるようになっているし、レンズに反射する光の描写、オールドレンズのように画面の四角だけぼやけていたり色が違っていたりといった演出にチャレンジしている。こうした諸々の実写的テクニックは『聲の形』においては総動員されていて、例を挙げだしたらキリがないほど数多く用いられている。
観客の想像に委ねる『足と横顔』
山田監督の絵コンテの特徴として、しばしばファンの間でも言及されるのは足と横顔のカットの多用だ。この2つは彼女の代名詞と言っても差し支えないだろう。『装甲騎兵ボトムズ』の高橋良輔監督との対談時に「足は普段は机の下に隠れちゃうので人の本性が出ちゃう」と、足のカット多用の意図を語っている。本作では足の表現はさらに洗練されている。本作は主人公・石田将也の一人称の物語で、基本的には彼の心情を描く作品だ。石田は他人の顔を見て話すことができないので、彼の主観ショットになると、自然と人物の足ばかりが映ることになる。この、顔の見られない石田の主観ショットで、石田の感情を表現すると同時に、相手の微妙な感情の揺れをも同時に描いている。本作は、彼女の足へのこだわりにピッタリの作品だったと言える。(ネタバレになるので詳述しないが、観覧車のシーンを原作と見比べてみると、山田監督の足へのこだわりがよくわかる)
人物を真横から捉える「横顔」の構図は、感情を強く出すシーンで用いられる。感情をストレートに見せるのなら正面から捉えた方が良いと考えるのが普通だろうが、山田監督は敢えて情報量が少なくなる横顔を選択する。その他、重要なセリフを喋っている人物を敢えて後ろから描くこともしばしばある。観客が一番観たいと思う部分を敢えて隠したり、情報を削ぎ落としたりするのも彼女の演出の特徴だ。決して描くのを省力した手抜きではなく、モンタージュやカットのつなぎ方で観客の想像力を巧みに刺激し、誘導していると言うべきだろう。いわゆる引き算の演出と言うべきかものだろうか。
この引き算の考え方は、本作では編集にも良く現れている。ジャンプカットでテンポを作ってみたりすることも多々ある山田監督。本作では、特に小学校時代のシーンで顕著に見られるのだが、間の展開を省いて結果を提示する演出を試みている。あのようなギスギスした少年少女時代を経験した人間は、この国にはたくさんいるだろう。過程をズバッと省くことで、観客一人一人の想像力(または記憶)に働きかけるテクニックも非常に高い。