菊地成孔の『ひと夏のファンタジア』評:言葉が浮かばない。今年前半で最も感動した、劇映画による「夢」の構造。

菊地成孔の『ひと夏のファンタジア』評

<夢と夢の素材>

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 我々は覚醒中に「現実」を見たり聞いたり、味わったり触ったりし、つまりリアルを経験と記憶として溜め込み、入眠し、夢を見る。つまり我々の視聴覚経験は、少なくとも二部構成になっている。本作のように。

 その際、夢の素材は全て現実から得られている、どんなに荒唐無稽で<非現実的>な夢でも、その素材は全て現実だ。

 ただ、夢は完全に調性を失っているとしか思えず、同一律も排他律も因果律も何もなく、つまり無限に前衛的であると同時に、素材が現実なので、独特の前衛性、個人性を持っている事は、何方もご存知であろう。

 フロイトのように、この「素材は現実」であることを担保に、夢を具体的に分析、判断しようという派閥もあるし、シュールレアリストのように、夢の強度をそのまま覚醒時に再現/獲得しようという派閥もある。

 アルフレッド・ヒッチコック、ペドロ・アルモドヴァル、ウッディ・アレン等は、各々作法は違うがフロイト派だと言える。一方で、純血のシュールレアリストとして映画を撮り続けた監督の代表にルイス・ブニュエルがいる。

 「3人のアンヌ(原題の逐語訳「別の国で」)」撮影中、主演のイザベル・ユペールに、ブニュエルの著作を読ませ続けたホン・サンスは言うまでもなくシュールレアリストの血を引いており、その遺伝子は、余すところなく本作の若き(39歳。オフショットを見る限り、ラッパーにしか見えない)チャン・ゴンジェにも受け継がれている。

 本作は前述の通り、我々の人生を線状に繋いでいる、二部構成の視聴覚経験に則る形で二部構成になっている。つまり、第一部は、第二部という「夢」の素材であり、そのことは、第一部のタイトルが「ミッドサマー・ストーリー」、第二部のタイトルが「ファンタジア」であることによって、あけすけなまでに表明されている。が、一筋縄では行かない。

 この場合、最も「一筋縄」な作品が「オズの魔法使い」であろう。主人公ドロシーの見た<夢>は、昼間の「現実」と、無根拠ながら因果律を持っていることが明確に示される。奇想天外なキャラクターたちと、ドロシーの日常の住人である労働者たちは、同じ俳優が演じている。

 本作をざっと斜め見した観客の何割かは「前半は後半のロケハンや取材を撮影したドキュメンタリー(現実)、後半がその結果の作品(夢)」と自動的に思うだろう。だが実際は違う。本作の前半部は、確かに映画製作のためのロケハンと取材を描いており、あまつさえ、その半分(住民へのインタビュー)の半分はドキュメンタリーである。しかし、それとて半分なのだ。

 厳密に言うと、前半の階層は以下の3層がある

1)俳優が演じる、「監督と通訳者であり助手である女性の、ロケハンと取材」のシーン(脚本のほとんどない、即興的な演技ながら、ドキュメンタリーに非ず)

2)その、2人の俳優(イム・ヒョングク、キム・セビョク)が、五条市の住民と篠原村の住人にインタビューを行うシーン(ハーフドキュメンタリー=インタビューに答えている住民は俳優ではなく、セリフでもない)

3)画面に俳優はいなく、インタビューを受けている住民がカメラ目線でインタビューに答えるシーン(ドキュメンタリー=実際に監督に向かって喋っていると思われる)

(※編注:日本公開バージョンでは、CHAPTER1:First Love,Yoshiko、CHAPTER 2:Well of Sakuraに変更されています)

<夢と夢の素材。の反転、もしくは液状化>

 ここまでの論旨に従えば、前半よりも荒唐無稽である筈の「夢」としての後半よりも、整然としていなければならない筈だ。ところが、上記3層がミクストメディアのアート作品のように混在する前半は、要約すれば3~4行で済んでしまうほどシンプルでアンチドラマティズムの、淡々とした「後半」よりも、若干不穏なのである。

 「前半」を素材とし、あらゆる律から自由な「夢」であるべき後半(第二部 「ファンタジア」)は、上記の通り、「ストーリーを要約しろ」と言われれば、以下のようなものだ。

 <韓国人で女優のへジョンは、女優としての壁を感じており、何かを探しに五条市までひとり旅に来ている、そこで、農家を営むユウスケに声をかけられ、観光案内される。ユウスケが思いっきり惚れ込む形で、二人は二日間の疑似デートを過ごし、ごくごく軽い恋愛感情が芽生えかけるが、結ばれない>

 夢でもなんでもない。淡白過ぎるほどの出来事が、極めてリアルに描かれる。

 しかし、明らかにこれは、前半を素材とした「夢」なのである。もう一度書くが、夢は、あらゆる律から自由で、前衛的ですらあるのだが、素材が全て現実であることから、完全な抽象化にまでは至らず「夢のリアリティ」といった、特殊で個人的なシュールレアリズムの状態を恒常化させる(デヴィッド・リンチの映画から、「暗号化された因果律」を読み取ろうとする、愛すべき愚者がいなくならないのは、そのせいである)。

 そして、その、無限のヴァリエーションの中には「現実と見紛うような夢」もある。本作での第二部は、こうした、リアリズムに1ミリの亀裂も生じさせない、一見現実のように見える、しかし、明らかに第一部を素材とした夢である。第一部との関係性は、あるようで、全くない。

 筆者は本作をDVDで5回見たが、だんだんと、ここまで書いた「夢と夢の素材」の前後関係、質差関係が転倒してゆくのを感じた。つまり「ちびくろサンボ」のエンディング、回転するトラがバターになる、魔術的な回転式坩堝であり、ホン・サンスがあらゆる手段を講じて脱構築しようとした「夢と夢の素材としての現実」に対して、非常に斬新でありながら、一見何もやっていないかのような自然派的な方法で、新たな一手を加えている。

<夢が喚起する感情と、現実が喚起する感情>

 第二部が我々に与える異様なまでの感動。もう本当に淡白で、若干いやらしいぐらいにリアルでユーモラスで、しかし再度、特に何も起こらない、まるでリアリティーショーかバラエティ番組の隠し撮りのような映像が、喚起する、正に字義に忠実に「夢のように」みずみずしい、我が国の民が、飢餓状態の小児のように年中欲しがってやまない「胸がキュンキュン」する感覚の横溢は、ごくごく自然であると同時に、奇跡的である。

 なぜなら我々は、夢でしか得られない、強烈な感情について熟知している。悪夢を見たときの異様なまでの恐ろしさ、淫夢を見たときの、異様なまでの興奮、そして「夢の恋」とも「恋の夢」とも言える、不条理なまでに切ない、恋の気分。第二部は、こうした、夢でしか得られない、恋の切なさが炸裂する。

 二日間、まるで日本人と韓国人の国民性が転倒したかのように、ユウスケはへジョンに迫る。まるで日本の乙女のように、へジョンははにかみ、表情の小さな変化だけで対応する。

 明日、韓国に帰る。韓国には恋人がいます。というへジョンにユウスケは、ひるむことなく「今夜、花火大会があるから、一緒に行かないか」と言う。へジョンは顔を振って、無言で断る。ユウスケは、自分が韓国に行ったら、昨日と今日みたいに案内してくれる?と言う。永遠とも思える数秒の沈黙の後、へジョンは、「紙ありますか?」と言う、連絡先を教えようとするのだ。

 紙は持っていないから、そうだな、、、と言って、この手首に書いて。とユウスケは言い、ヘジョンが書き終えるや否や、そのままヘジョンの手を取る。

 あらゆるキスは、発生である。と蓮實重彦は言った。現実界であれ、象徴界であれ、想像界であれ、主観であれ、客観であれ、キスは全て、発生の歓喜に満ちている。クロノスでもカイロスでもない、永劫とつながった、第三の時間である「発生」。そこには準備も助走もない。

 ヘジョンが苦笑いしながら一歩退くのか、思わずユウスケを平手打ちするのか、ふざけてじゃれ合うことでごまかすのか、キスに応じるのか、我々にはヒントも伏線も与えられていない。そして、次の瞬間、半ば強引にキスするユウスケに応じたヘジョンは、我々の誰もが驚くほどの積極性で、キスを仕返し、驚くほど強く抱きしめ合うのである。この、夢でしか経験できない強度の、恋の切なさ。

 これが夢でなければ、つまり二部制を採らない普通の恋愛映画だとしても、多少は胸ぐらいキュンキュンしたであろう。しかし、本作でのこのシーンは、黒澤明の「椿三十郎」のラスト、三船敏郎と仲代達矢による、数分間の見つめ合いの末に、二人が同時に剣を抜き、一瞬で仲代達矢の胸から、ショワーのように血が溢れ、決着がつく、あの「発生」の強度に満ちた伝説の決闘シーンと同じ構図によって、同じ強さの、つまり異様なまでの、再びつまり、「夢のような」興奮を見る者に与える。それは第二部が、どれほど現実に似ていようとも、夢であるからに他ならない。

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