「時間」を取り扱う恋愛映画の課題とは? 『アデライン、100年目の恋』のSF性とファンタジー

『アデライン、100年目の恋』が描く

 ブレイク・ライブリーの顔を見るとどうしても、『ゴシップ・ガール』のセリーナ・ヴァンダーウッドセンのイメージが離れない。他のゴシガル出身俳優たちを他の作品で見かけても、それぞれの役を思い出してしまうのだが、その中でもライブリーに関しては群を抜いてセリーナのイメージが強力すぎるのである。『ゴシップ・ガール』はさながら90年代末に人気俳優を数多く輩出した『ドーソンズ・クリーク』の再来と呼んでも過言ではない。

 近年、ハリウッドでは映画は元より、テレビドラマの力が強くなってきている。ネット配信ビジネスが盛んになってきたことも相まってか、映画とほぼ同等のバジェットで作られるテレビドラマのクオリティが、以前と比べても遥かに進化し、もはや映画との境界がなくなって見えるほどである。

 『ゴシップ・ガール』はシーズン6まで続いた、やや長めのシリーズである。もっともこのぐらいの長さになると、作品単体の規模というよりは、物語の進み方や裾の広げ方で、映画と完全に対になっているのであるが、単発のテレビ映画や、ミニシリーズは劇場用の映画とそう大差なくなっているのである。

 それを考えると、この『アデライン、100年目の恋』が仮にテレビドラマのミニシリーズとして製作されていたとしても、規模自体に大きな変化はなかったであろう。それでも、同じ尺の中で収めたとしても、物語をおよそ4話ほどで集約させなければならなくなり、登場人物と設定を確認する第1話を経て、メインカップルが出会う第2話、物語が揺れ動く第3話で終盤に進み、第4話で綺麗にまとめあげる必要が出てくる。その点では、映画というフィールドを選択して、時間配分に自由を利かせたことは功を奏した。年を取らない女性の100年の物語というプロットだけでは、ある程度の長さを必要とする物語が描かれなければならない予感がしてしまうが、それを2時間に満たない映画の尺にまとめあげるという決断は好意的に迎え入れたい。

 それでも、100年の中から2時間を抽出する作業においては、監督を務めたリー・トランド・クリーガーの力ではまだまだ及ばない印象を強く受けたのである。時代描写の描きこみは決して悪くはないのだけれど、どことなく無機質であり、時間軸の推移や一定の見せ場を作るといった映画の基本的な構成よりも、主人公の心理を描き出すことで精一杯になってしまっているようにも思える。

 とはいえ、アデラインという女性が生まれるのは1908年のことで、29歳のときに事故に遭い、雷に打たれてそのまま年を取らなくなっていくというメインプロットの扱い方においては決して悪くない。ストーリーの主軸を2014年の現代に置き、回想の形で過去の出来事を辿っていきながら、現代では一定のペースで物語が進んでいく。終盤にハリソン・フォード演じる恋人の父親が登場してからの過去とのリンクの方法論は、少々強引さを感じるものがあるが、やむを得ないのではなかろうか。

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