宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼

宮台真司が『バケモノの子』を読み解く

脚本から透けて見えた、細田監督の"自信のなさ"

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 ただ惜しい点があります。今日的な大テーマとして「言葉にならないもの」を愛でているのに、言葉による説明が多過ぎることが、引っ掛かるのです。百秋坊や多々良などの舞台回し役が「ようやく熊徹も△△になって来たな」などと喋り過ぎですし、「心の闇」が爆発して突如ヒール(悪役)として登場する一郎彦も、描き方が概念的に過ぎます。

 「心の闇」という言葉が連発されますが、概念的には分かるけれど、腑に落ちません。幼少期の一郎彦は、いじめられっ子だった九太を救ったいいヤツでしたが、ここまで変わってしまったのは、人間につきものの「心の闇」のせい。そんなバカな。言葉にならない感情的な思いの渦巻きを描かないで、「心の闇」が覚醒したなんて、バカげている。

 生煮えの概念的言語でしか示せないものは、映画から省いた方がいいです。だってそれがテーマなんだからね。【幼少期の九太の引っ越し場面での「しろくじら」→女子高生・楓との交流場面での「白鯨」→「心の闇」が覚醒した一郎彦が変じた「白くじら」】という連想ゲームも、概念的過ぎて、まったく同じような意味で、バカげています。

 楓が「説明」してくれます。エイハブ船長と白鯨との戦いは、実は自分自身との戦いなんだよと。エイハブ船長と同じように九太も一郎彦も「心の闇」を抱えていて、それとの戦いが「白くじら」との戦いとして象徴されているんだよ、という「説明」です。こんな「説明」で納得する大人はいませんし、まして子供には完全に意味不明でしょう。

 生煮えな概念言語の"おかず"が溢れるのを見ると、脚本に自信がないのかもしれません。それは、彼自身の父親としての振る舞いへの自信のなさに由来するかもしれず、それはまた、彼と彼の父親との関係に由来するのかもしれません。原案は素晴らしいので、概念言語の"おかず"をきちんと省ける優秀な脚本家を立てるべきだったかもしれません。

 とはいえ、熊徹の身体挙措を九太が完コピする場面を典型に、言語よりも身体性、象徴界よりも想像界、といった対比は随所に展開されていて、納得的です。女子高生・楓との出会いのエピソードについて「あんなものなくてもいい」という議論もなされていますが、これも「言葉/言葉にならないもの」というモチーフにうまく収まっています。

 良家の娘である楓は進学校に通い、親にそれこそ概念的な意味で褒められるために日常を送るものの、誰とも気持ちを通じ合えたことがない。概念言語が支配する人の世で、そのことに疎外され、適応できない女の子が、まだ文字も読めない概念言語以前の九太と出会い、気持ちを通じ合うという展開は、非常に自然で、モチーフが一貫しています。

 また、「九太と熊徹の会話が少なすぎる」という声もありますが、間違いです。他のキャラクターの言葉による説明が多すぎるからバランスが崩れているだけです。「言葉ならないもの」が互いの関係を支えているバケモノ界で、九太と熊徹がいつもべらべら喋っていたら、主題が壊れてしまいます。ことほどさように、批判の多くは的外れです。

 作品全体の方向性は正しいです。だから、的外れな批判はもとより、「言葉にならないもの」を擁護する映画に言葉が多すぎるのは変だという批判も、それを言い立てて作品を貶めるほどのことじゃない。僕のおさなごたちは、もちろん「心の闇」うんぬんなんて完全にスルー、というか胸のところに展開するCGのことだと思っていましたから。

 昔『崖の上のポニョ』を当時四歳だった長女と観たとき、僕は「ポニョは海で生きて来たのに、バケツの水道水に入れたら死んじゃないか」と突っ込みたくなったけれど、長女が通路に出てエンドロールの歌に合わせてブイブイ踊っているのを見て、別に細かいことはどうでもいいやと思い直したことがありました。今回もそれを思い出しました。

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