濱口竜介が『シネマトグラフ覚書』を写経する理由「ブレッソンの思考自体に無視していいものは一つもない」

普段使わない言葉を「引き出しの手前」に置く

――確かにブレッソン流より遥かに“柔らかい”作法ですね。「門」を抜けた段階で、ある種のドキュメンタリズムに俳優を開いていく、とでも言いますか。

濱口:そのとき、実際のところ本読みだけでは十分ではなくて、それを経た後に何かが起こるように準備をしなくてはならない。例えば自分はサブテキストという形で、映画本編では描かれない登場人物の背景や過去の関係性などを書いて俳優に渡します。それはいわゆる一般に言われる「役作り」に近い部分もあると思います。「こういうことがあったかもしれない」「こういうキャラクターかもしれない」という資料を渡し、それに基づいて考えてもらう。

――それを読んで俳優がどう反応するか。

濱口:それらを読むとき、もしくは自分で考えようとするとき、俳優は当然、役柄についてイメージをする。日常に目を向けると、我々はたくさん記憶違いをします。見てないものを見たと思い込んだりするっていうのは映画の感想なんかでよく起こりますね。つまり、イメージと記憶の境目は曖昧なものです。それらは時間を置けば混濁してくるので、キャラクターのバックストーリーを何らかの形で俳優が持っておけると、撮影現場で役の言葉と俳優自身の記憶がつながる瞬間がある、かもしれない。そう思って、そのための状況を整える、ということをしています。

――そこを捉えたい?

濱口:そうですね。そして、その役柄と俳優の一致は偶発的にしか起きないことなので、その瞬間にカメラが適切な位置にいられるかどうかが問題になります。

 やっていることをまとめるならば、まずセリフというのはキャラクターの言葉である。これは俳優が普段使う言葉ではないわけですよね。我々が普段使う言葉って結構固まっているというか、選ぶ言葉は一定の傾向があって、私は私っぽい、森さんは森さんっぽい話し方をされると思うんですけど、演じるときに俳優は基本的には、普段はほぼ使わないような言葉を言わなきゃいけない。

――なるほど。それが演技であると。

濱口:そうですね。そもそも演技には普段言わない言葉を言うっていう無理があるわけです。なのでせめて、その言葉が記憶の引き出しの一番手前にあるような状況に短期的にしておく必要がある。本読みによって普段使っている言葉の状態と、キャラクターが使っている言葉の条件をできるだけ近づかせておく。そうすると、普段の自分の身体の状態でセリフが言える、こともある。

――つまり自分が積み重ねてきた言語のシステム、あるいはデータベースを、演技の人物のほうにちょっと寄せてもらって変える、というような。

濱口:そうも言えますが、それには限界があります。だからキャスティングが重要なんです。基本的にそのキャラクターに必要なものを持っている人にお願いする、っていうのが第一です。

 ブレッソン流の「読書訓練」は書かれている通り、無駄をそぎ落とし、自動現象になるまで反復するものなんでしょう。一方、さっきも言ったようにルノワールはそのドキュメンタリーを見る限りでは、ある時点で一般的に想定される演出とかなり近く見えます。その点で、出発点は同じでも、着地点は相当違います。ただ二人に根本的に共通するのは、元々演者が持っている意図や想定をそのまま演技の場に持ち込むと、俳優がかつて経験したものや、想定したものの再生産にしかならないっていう、その危険性の認識です。

――普段でも「いまの俺、これは何かをなぞっているぞ」と感じることがよくあります。

濱口:インタビューの場でもよく起こりますね(笑)。同じ質問には、基本的には同じ答えしかしようがないので。

――『急に具合が悪くなる』の取材で毎日同じことを聞かれると、濱口さんの回答も再生産的になっちゃいますか?

濱口:避けようと思いますが、なりますね。どれだけ同じことを繰り返しても初めて喋ったように見えなければいけないのかしらと思ったりしますが(笑)。これはでも、聞かれ方による。インタビュアーの在り様によって、自分が引き出される言葉はずいぶん変わってきます。インタビューが面白かったら、それは聞き手の手柄、つまらなくても自分のせいではない、と思って大体やっています(笑)。

――急に緊張してきました(笑)。そう考えると普段の現実も、映画の撮影もあまり変わらないのかなと。

濱口:それはそうですね。インタビューの聞き手の仕事と、演出の仕事って実はめちゃくちゃ近いと思います。

――言葉って自分の意志で喋っているようなんですけど、確かに自分のデータベースとかシステム、言語体系から引っ張り出してきているようなだけのような気もします。演技をするというのは、そこのシステムやデータベース自体をごそっと変えてしまえば、何か別の言葉を割と自分の実感をもって実は喋ったりできるのかもしれないと。

濱口:ただ、 “ごそっと”っていうのは無理がある。せいぜい1、2ヶ月の撮影期間では、ほんのわずかにしか変えることができない。その人が何十年生きてきたことの習慣のほうが遥かに強いっていう実感があります。準備期間も基本的にはそう多くはもらうことはできない中で、基本的にはわずかに変わった部分で勝負を賭けないといけない。

 そもそもキャスティングが第一という話をしましたが、モデル選びのことをよくブレッソンも話していますね。どの人に役をお願いするかということに結局は8割9割かかってくる。

――結局、大島渚じゃないですが「キャスティングが8割」ってところに戻っていく。そうなるとブレッソンの言う「スター・システム」、商業映画のキャスティング要請は濱口映画にはしんどいですよね。

濱口:私個人にとっては、キャラクターとのつながりを感じたり、面白い化学反応が起こりそうな人であることが第一で、知名度は二の次です。キャスティングを間違えると、もうどうしようもないので。

ブレッソンは「感情」と「魂」の作家である

――ちょっと視点を変えますが、映画(撮影・鑑賞)以外の人生、生活の場面において、『シネマトグラフ覚書』が影響を与えているものはございますか?

濱口:いや……、この本は「映画監督のノート」なわけですから、元々はブレッソン自身のための、とことんパーソナルな文章の集積なんですよね。それを我々は気前よく見せてもらっているだけで(笑)。なので、ブレッソン以外の人、はたまた映画以外の職業の人にどれほど一般性があるかと言われると難しい。ただ、「身体」や「感覚」に興味がある人には、十分興味深いことが書かれていると思います。

 何より、取り組んでいるものごとの原理原則にまで潜っていく姿勢そのものが、非常に刺激的です。その態度は、どの分野でも参考になるはずです。その中で、いまの時代的にも特に面白いと思えるのはブレッソンの「注意力」への絶大な信頼です。

――「注意力」?

濱口:ブレッソンは「不注意」を憎んでいるんですよ(笑)。150ページにこういう一節があります。

「シネマ、ラジオ、テレビ、雑誌、それらは人々に不注意を教えこむ学校だ――人は見ることなく視線をそそぎ、聴くことなく耳を傾ける。」

 「注意深くあれ!」という断章もありますが、おそらく現場の自分に対して警句を発している。一方で、注意深くない観客に自分のシネマトグラフが晒されることに、ブレッソンは地獄のような苦しみを持っていたと思います。

――そうでしょうね。僕も耳が痛いです(笑)。

濱口:実際にブレッソンの映画を注意深く見返すと「なんのためにそんなことを?」というディテールに満ち溢れています。身体の細かな動き、背景のエキストラの動きや物の配置など、尋常ならざる注意によってしか作られ得ないものを我々は見ている。ブレッソンから多くの観客が受け取る「聖なる映画」という印象は、日常的な認識能力からこぼれおちるほど入念な細部の配置やその動き、細部同士の関係から生じているものと感じます。

 ただ、ほとんどの観客はそんなところを見てはいない(笑)。それはブレッソンが、ほとんどそれを「隠して」いるからでもあるので、アンビバレントなんですけど、ブレッソンにとっては辛かったようです。『覚書』にも幾つもの嘆きが書き込まれています。

 これほどの「注意力」を持って生きる暮らしというのは、これはこれで辛いことなんでしょう。ただ「注意力」を高めることで、普段見えないことが見え、聞こえるようになる。それが究極的には、ブレッソンの言う「テレパシー」や「予知能力」と呼ばれる領域につながる。

――ベタに言っちゃうと、精密器具のように「注意力」を研ぎ澄ませて世界への解像度を上げることで、「テレパシー」のような洞察力を身につけることができるかもしれない、と。意外に“正論”ですよね。

濱口:そう考えると、ブレッソンの言う「魂」は別に怪しい神秘性でもオカルティズムでもなくって、映画の撮影現場で見いだすべきものにほかならない。

 ブレッソンは、モンテーニュを引いて「魂の運動は、肉体のそれを同じ進み方で生まれる」と書いています(P52)。魂と肉体の進行の度合いは同じだと言い、肉体を注意深く見ることは、そのままその人の内面や魂を見ることにつながる。そこに差異はないということですね。

――なるほど。

濱口:この流れで言うと、『シネマトグラフ覚書』の翻訳について、気になっていたことがあります。110ページです。

「そこに身振り芝居(意図されたものにせよそうでないにせよ)が介在しないかぎりにおいて、君のキャメラは人々の顔の間を横切ってゆく。目に見える内なる諸運動から成り立っている、シネマトグラフの映画。」

 ここで問題にしたいのは「横切ってゆく」なんです。カール・ドライヤーならば、まさにそんなショットも思い浮かびますが、ブレッソンの映画のなかで、カメラが顔の間を横切っていく場面というのは想像しづらい。ここで「横切ってゆく」と訳されているのはフランス語のtraverser(トラヴェルセ)で、横断・横切るのほかに「貫通する」という意味があります。基本的には境界を超えてしまう、ということなのだと思います。私は、この断章は以下のように解釈しています。ちなみに「物まね」と訳しているのは「une mimique」です。

「そこに物まね(意図されたものにせよそうでないにせよ)が介在しないかぎりにおいて、君のキャメラは人々の顔を貫通する。目に見える内なる諸運動から成り立っている、シネマトグラフの映画。」

 つまり、再現的な演技を徹底的に排除すれば、その人の顔を撮るカメラはその内面、内的な運動にまで到達しうる。おそらくブレッソンはそう言っているのではないか。ちなみに、私の語学能力はまったく高いものではなくって、この訳は、単に私自身のブレッソン理解から来るものです。

 ブレッソンにとって「細心綿密な記録装置」であるカメラは身体の表面を「貫通」し、魂の状態までも記録するもの、として読んだほうが筋が通る気がして、自分ではそう思っています。

――“見えないもの”に向けての「貫通」で言うと、「シネマトグラフにおいて、<感情>は一切否定されないどころか、それはむしろ目指されるべきものなのだ」と濱口さんは『他なる映画と 2』で書かれていますね(P353)。

濱口:そうです。ブレッソンは単に形式的な作家ではまったくない。「動き」の作家であるのは勿論ですが、まったく同時に「感情」の作家であり、「魂」の作家だと本気で思っています。この辺りは是非、『他なる映画と2』所収の「ある覚書についての覚書」も読んでみていただきたいと思っています。

――僕は『急に具合が悪くなる』をそういう映画として観ました。何より「感情」の映画である。そこに向けて、膨大なテキストを厳密に積み重ねていった映画である、と。

濱口:まさに「感情」しか狙い定めているものはないので、そう言っていただけるとありがたく思います。原作(哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡『急に具合が悪くなる』晶文社)から最も触発されたのは、根本の二人の関係性とお二人の「感情」です。それを、自分なりに映画にしたいと思いました。

――真理(岡本多緒)とマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)のある決定的な一日の交流は、演劇と介護施設を運営する“ディレクター”同士の対話であり、そこに映画の“ディレクター”である濱口竜介の声が重ねられている印象を持ちました。例えば「もっとお金があれば、あれもこれも解決できるのに、っていう思考の枠組み自体に罠がある」というセリフも、運営者同士のリアルな声として切実に聞こえました。

濱口:そうですか(笑)。では、それに絡めて最後にブレッソンの言葉を一つ……168ページからの一節です。

「シネマトグラフの未来は、制作に有金残らずはたき、しかもこの職業の因習に足を取られることなく映画を撮りつづける孤独な若者たちからなる、新たなる一種族のものである。」

――これは美しいですね。

濱口:有金残らずはたけるか?という問いがまず自分に向かってきますが、ただ一つ言えるのは、お金の多寡の問題はここで言われてないということ。ブレッソンも実現できない企画などもあるので、常に製作予算に恵まれていたわけではないでしょう。けれど、そこだけが問題ではない。自分が今惹かれるのは「この職業の因習に足を取られることなく」という部分です。自分たちがやっていることの原理原則まで降りていくような思考をしない限り、手元のお金はどんどん吸い取られていくだけです。逆に言うと、「職業の因習に足を取られることなく」原理原則まで思考することで、絶対に上手くいくわけがないことを予め避けたり、試行錯誤する領域を選ぶことができる。原理原則まで考える人っていうのは、大体めんどうくさい人、非効率だと思われたりする。「そういうことになってるんだから、もういいじゃない」と周りからは言われたりする。ただ、結果として原理原則まで思考した人こそが、最大の効率を達成することもあるとは思っています。

――真理が言っていた「究極的には一人の俳優と、一人の観客さえいればできる。いつでもそこに戻る覚悟はあるかな」という言葉は、濱口さん自身のつぶやき?

濱口:いやいや、演劇ならいけるかもしれないですが……。映画は一人の俳優と一台のカメラではちょっと足らないかもしれないですね。それに近い覚悟はありますが、一人の俳優で撮る自信は私にはないです(笑)。

『急に具合が悪くなる』に影響を与えた書籍三選

ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子訳、ちくま新書)

ナンシー・フレイザー(著)、江口泰子(訳)『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)

濱口:「共食い資本主義」という言葉を唱えた、アメリカの政治学者ナンシー・フレイザーの著作です。資本主義という巨大なシステムが個人の生活とどうつながっているのか、は多くの人にとってイメージしづらいところだと思うのですが、本書が優れているのは、この社会システムが、どうやって個々人の生活に入り込み、時間や身体を奪っていくのか――その関係にビシッと線を引いてみせたところだと思いました。

 『急に具合が悪くなる』の中で真理が「闘っているものの正体」を詰めてみようと言って、ホワイトボードに書き始める“構造”の整理の図は、この本を大いにヒントにしています。人間の身体も自然であり、そこもまた収奪されていく「外部」なのだということは、私自身も実感として感じていたことだったので、本書の整理には強い感銘を受けました。この本は、我々の社会は生産に資本は投下しても再生産、即ち心身の回復やそのためのケアには対価を払わず、ただ乗りしているということを改めて指摘します。この指摘は、ジェンダーや人種の問題にまで伸びていくものです。

 今の社会ではフレイザーの言う「もう終わりなのか」という感覚に近いものが共有されているかもしれませんが、どうやら人は危機のときにしか考えないもののようです。相当な危機だからこそ、相当に皆の思考が活性化される、ということも起こり得ると思っています。そのヒントとしても、興味のある方は是非。

松嶋健『プシコ ナウティカ~イタリア精神医学の人類学~』(世界思想社)

松嶋健『プシコ ナウティカ~イタリア精神医学の人類学~』(世界思想社)

濱口:文化人類学を専門とされている松嶋健さんの『プシコ ナウティカ』は、イタリアの地域精神保健をめぐるフィールドワークから立ち上がった非常に強靭な思考の書籍です。読んでいて生きることに励まされるような一冊でした。そこで初めてフランコ・バザーリアという精神医療改革者を知り、その静かで深い衝撃が『急に具合が悪くなる』の劇中演劇の題材になっています。吾朗(長塚京三)が演じるオリジナル戯曲は、本書との出会いがなければ生まれなかったと思います。

 本書にはポーランドの演出家、イェジー・グロトフスキの実験演劇を精神医療の患者の人々とワークショップしたことについての章があり、著者自身がその場に参加している。その記述に惹かれて読み始めたのですが、1章・2章のイタリア精神医療の歴史と思想の部分にも強く導かれました。

 特に「人間についてのアニミズム」という言葉は、介護施設を舞台にした映画を紡ぐうえで大きな指針になりました。私たちの社会は、人間を本当に“魂を持つ存在”として扱っているのか――その問いが作品の根にあります。

 タイトルの“プシコ ナウティカ”は「魂の航海」という意味。分厚いけれど多くの人に薦めたい本で、実際私は人にあげたりして何冊も買っています。どの章から読んでもいいと著者の松嶋さんご自身も言っていて、イタリア精神医療史を扱う第1章は私も最初は少しハードルが高かったので、興味ある章から入ると読みやすいかもしれません。映画『急に具合が悪くなる』を見た人には第2章がオススメです。

山崎正和『演技する精神/変身の美学』(中央公論新社)

山崎正和『演技する精神/変身の美学』(中央公論新社)

濱口:2020年に86歳で亡くなられた美学者の山崎正和さんは、劇作家でもあり、演劇の現場で実際に仕事をしてきた人です。もともと1980年代に発表された著作『演技する精神』と『変身の美学』を一冊に収めたのが本書。巻末の解説を『急に具合が悪くなる』の撮影中に依頼されて、初めて読みました。演技一般については深く考えたことがなかった自分にとって、舞台について書かれた本なのに、映画の演技論と響き合う部分が非常に多い。それもやっぱり、山崎さんが演技の「原理原則」のレベルまで思考を進めていっているからです。「心を隠すことはできても、心身の分裂そのものは隠せない」という指摘が、ロベール・ブレッソンの言葉とほとんど一致していることにも驚きました。

 山崎さんは、舞台上で“リアルな感情”を写実的に再現しようとすることの不可能性を指摘します。俳優が「真実」の感情と思うもの、例えば怒りや悲しみを思うままに激しく表現したとしても、それは「猛獣の咆哮」にしかならず、観客と関係をむすびえない、と。演技は必ず「様式」を伴うものです。そのことを受け容れることからしか演技は始まらない。その考え方は、ブレッソンが「モデル」にセリフや仕草、その反復練習を課したことと通底する気がしています。

 決して読みやすいとは言えないですが、美学と演劇の経験が結びついた非常に興味深い一冊です。自分の解説文はそこだけ単体で読んでも成立するように書いたつもりなので、そこからでも、是非読んでみていただきたいと思います。

■書誌情報
『シネマトグラフ覚書: 映画監督のノート』
著者:ロベール・ブレッソン
翻訳:松浦寿輝
価格:3,190円
発売日:1987年11月1日
出版社:筑摩書房

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