オードリー 若林正恭は“直木賞作家”になれるのか? 文芸評論家「今回の候補作は全体として非常にレベルが高い」
日本文学振興会は6月11日、第175回直木三十五賞(直木賞)の候補作を発表した。今回の候補には、朝倉かすみ『けんぐゎい』(光文社)、蝉谷めぐ実『見えるか保己一』(KADOKAWA)、凪良ゆう『多類婚姻譚』(講談社)、原田ひ香『#台所のあるところ』(文芸春秋)、そしてお笑いコンビ・オードリーの若林正恭による初小説『青天』(文芸春秋)が名を連ねた。
なかでも大きな話題を集めているのが、若林の初小説作品のノミネートだ。芸人として活躍する一方で、エッセイストとしても高い評価を受けてきた若林だが、純文学·大衆文学の世界で権威ある賞の候補に名を連ねたことで、SNSを中心に驚きの声が広がっている。
一方で、候補作全体を見渡すと実力派作家が揃った充実の顔ぶれでもある。今回の選考をどう見るべきなのか。文芸評論家の杉江松恋氏に話を聞いた。
杉江氏はまず、若林のノミネート自体について「タレントなどの著名人の作品が候補に上がること自体は、特別に珍しいケースではない」と語る。
「過去にも著名人が直木賞候補になることはありましたし、有名人の作品が候補になること自体は決して珍しくありません。ただ、どんな有名人の作品でも候補になるわけではなく、文学的な価値や可能性が認められた作品が選ばれているのは確かです。若林さんはすでにエッセイストとしての評価がありますし、候補入りは十分に納得できるものだと思います」
また、『青天』がすでに29万部を超えるヒット作となっていることも含め、「話題性という意味では大きな注目を集めるだろう」と見ている。一方で、受賞レースとなると状況は別だという。
「正直に言うと、今回は受賞の可能性はそれほど高くないのではないかと見ています。というのも、今回の候補作は全体として非常にレベルが高い。作家として実績を積み重ねてきた人たちが、自身のキャリアの延長線上で新しい挑戦を行った作品が揃っているからです」
そのなかでも特に評価が高い作品として杉江氏が挙げるのが、蝉谷めぐ実『見えるか保己一』だ。
蝉谷はこれまで『化け者心中』(KADOKAWA)や『おんなの女房』(KADOKAWA)など、江戸時代の歌舞伎小屋などを舞台にした時代小説で高く評価されてきた作家だが、本作では江戸後期の全盲の国学者・塙保己一を主人公に据えた。杉江氏は「これまでの得意分野から一歩踏み出した挑戦作」と位置づける。
「歌舞伎の世界とは異なる題材に取り組みながら、視覚障害者が社会とどう関わっていくのかを非常に現実的な視線で描いています。単なる同情や美談ではなく、一人の人間が世界と接続していく姿を丁寧に描いている。業界内で評価が高いのも当然だと思います」
ほかの候補作についても、杉江氏はそれぞれの作家がキャリアの集大成ではなく“次の一歩”を示している点を評価する。
本屋大賞を受賞した『流浪の月』(東京創元社)や『汝、星のごとく』(講談社)で知られる凪良ゆうは、これまでも現代社会における生きづらさや居場所の問題を描いてきた。本作『多類婚姻譚』では連作短編集という形式を採用し、多様性というテーマに向き合うことで、従来の作風をさらに発展させているという。
また、累計発行部数100万部を突破した『三千円の使いかた』(中央公論新社)などで広く読者を獲得してきた原田ひ香の『#台所のあるところ』については、「貧しくなっていく日本社会をユーモラスに描いてきた作家が、より現実に根差した人物像や生活描写へと踏み込んだ作品」と分析する。
さらに、山本周五郎賞を受賞した『平場の月』(光文社)などで知られる朝倉かすみの『けんぐゎい』についても、「時代小説という新たな領域への挑戦」でありながら、従来から高く評価されてきた語りの技巧が存分に発揮されていると指摘する。
「どの作品も単純な面白さだけではなく、『この作家がこれをやるのか』という驚きがあるんです。自分の得意分野を磨きながら、さらに新しいことに挑戦している。その志の高さという意味で、今回の候補作は横一線だと思います」
もちろん、若林の作品もまた挑戦作であることに変わりはない。杉江氏は、これまで刊行してきたエッセイを引き合いに出しながら、「若林独自の視点が小説へと自然に接続されている」と評価する。
「若林さんのエッセイは、自分という存在を通して世の中の違和感を見つめるような作品でした。その視点が今回の小説にも生かされています。突然現れた作品ではなく、これまでの文筆活動の延長線上にあるものだと思います」
そのうえで、「初めて純粋な創作小説という形に挑んだという意味では、若林さん自身にとっても文学的な新しい段階に入った作品」と語る。
ただし、今回の候補作がいずれも長年小説を書き続けてきた作家たちによる“次の挑戦”であることを考えると、選考では不利な面もあると見ている。
「若林さんも挑戦している作品ですが、ほかの候補者たちは何冊も積み上げてきた小説家としてのキャリアの上で挑戦している。その違いはやはりあると思います」
話題性では若林が一歩抜け出している。しかし、作品そのものの完成度と挑戦性で見れば、今年の直木賞戦線は激戦となりそうだ。第175回直木賞の選考会は7月16日に開催される予定。果たして栄冠を手にするのは誰なのか。