「ラーメン」は獣に、「瞑想」は神に近づくためのものーー宇野常寛『ラーメンと瞑想』が示す、世界の違う見方

 「みんなで食べるとおいしくなる」といった類の言説は信用しない。本文の2ページ目でそのような姿勢を鮮明にするのが、宇野常寛『ラーメンと瞑想』(ホーム社)である。著者は、社会関係や縁をつなぐための食ではなく、食べる快楽に集中したいという。酒席に集って敵/味方を確認するような話をする「飲みニケーション」への嫌悪も隠さない。本書の半分は、そんなスタンスからの食べ歩きエッセイになっている。『ラーメンと瞑想』の「ラーメン」の部分である。

 ただ、ラーメンばかりが出てくるわけではない。たとえ過剰なところがあっても味わいたい食の象徴として「ラーメン」を掲げているのであり、本書にはいろいろな料理が登場する。ラーメン富士丸、干物定食のしんぱち食堂、デリカテッセンのPARIYA AOYAMA、ハンバーガーのCHATTY CHATTYなど、章ごとにタイプの異なる店が登場する。そのうえ、著者が店のメニューからどれを選ぶのか、考え悩む過程まで細かく書いているのが楽しい。例えば、PARIYA AOYAMAでは、メイン、サラダ、サイドメニュー、ドリンク、汁物、それぞれの選択肢からどう組みあわせるかの吟味が、ああでもないこうでもないと2ページ強にわたって繰り広げられる。一部だけ引用しよう。

 しかし、問題はむしろこのようなケースだ。メインに「豚肉とレンコンの甘酸っぱ炒め」を選び、サラダに「オレンジと旬のセロリのグリーンサラダ(シグネチャーフレンチドレッシング)」を選んだとき、僕はサイドメニューに「フライドポテト」を選ぶべきか、「切り干し大根のトマト酢マリネ」を選ぶべきか、極めて厳しい選択を迫られる。

 こうした逡巡、大真面目な長考が、本書のあちこちに出てきて、美味しそうだし自分も迷ってしまう。

 「ラーメン」と並んで書名になっている「瞑想」とはなにか。著者は、親しい友人の編集者Tと水曜日の朝、ともにランニングをしながら会話するのが習慣になる。Tは瞑想の基本を身につけており、ランニングの後に2人で瞑想するのも恒例化する。Tが愛用する瞑想の補助アプリでランダムブザーと鐘を鳴らし、呼吸に集中しつつ浮かんできた思念を見送るのだ。これが「瞑想」だ。Tは「我々は動物として飢えを満たし、神に近づくために瞑想します」、「都市にはラーメンを食べて死ぬ自由があり、瞑想するための場所があります」などと発言する。

 ランニングをして瞑想した後、中年男性2人はともに昼食をとる。『ラーメンと瞑想』には、2人が食べ歩いた店のメニューが記録されているわけだ。最初の頃、食に興味がないTに対し、食の快楽を重視し食について考えぬく著者の方が店を提案する。また、Tは午前中からアルコールをよく口にし、ランニング後にもストロングゼロのロング缶を呑むような人間だった。ここで疑問が浮かぶ。著者は、独りで食事をするのを好むと表明していたではないか。いつも孤食というわけではなく、友だちと食べる時もあると断ってはいたが、飲みニケーションを嫌っていたはずだろう。なぜ、Tと毎週昼食をとるのか。

 まず、Tが興味深い人物なのである。ヨウジヤマモトで黒ずくめの服装が定番の彼は、「恐れと悲しみの中を生きる人間」を自称しているが、著者からはそんな風には見えない。特徴的なのは、Tが日常会話を書き言葉で話すことだ。そのため、彼の話すのを読んでいると、浮世離れしたナルシストといった印象を受ける。食の快楽に集中したい著者の流儀を尊重し、Tは食事中に著者と喋っていないらしい。また、飲酒しながらであっても、彼らの会話は、仲間うちで敵/味方を確認するようなものではないから、飲みニケーションの範疇には入らないようだ。2人の関係は、著者がTに「ラーメン」を、Tが著者に「瞑想」を提示する形で始まるが、回を重ねるにつれ、互いが考え方や行動を変化させていく。それぞれがどのように変身するかが、本書のポイントの1つだ。

 そして、2人が、互いに重視する食事と瞑想以上に時間を割いていると思われるのが、会話である。Tは古典的教養に富んでおり、批評家である著者と様々な知的議論を展開する。対話によって思索を深めるというギリシャ哲学や原始仏典のようなスタイルが、食エッセイと合体しているのが、『ラーメンと瞑想』の面白さだ。メニュー選びについて徹底的に思考するその頭で議論をしている。そのことが、食をもっと真面目に考えてもいいかもしれないと思わせると同時に、そこまで難しく考えなくてもいいかもしれないと知的議論をユーモラスに感じさせてもいる。両方に対し、先入観を揺さぶるところがあるのだ。

 本書では瞑想の場面になるたび、次のフレーズがゴチックで出てくる。

獣の世界に物語はなく

神の世界に幻想はなく

獣と神の世界には、過去も未来も演劇性もなく

 本書では、「ラーメン」は獣に、「瞑想」は神に近づくためのものと位置づけられているのだから、食べているのではなく瞑想しているのでもない時の対話は、人間として行っているととらえていいだろう。章ごとに多様な事象について話されるが、そのなかには『哀れなるものたち』や『オッペンハイマー』といった映画の話題が出てくる。物語を論じ評しているわけだ。また、互いに相手の考える「自然」が観念的だと批判しあう場面もある。幻想がテーマになっているのである。

 また、笑ってしまうのが、完成されすぎたキャラクターの殻を破るために「シェ―」や「クックロビン音頭」をしてみたらどうかと著者が提案し、Tが拒否するやりとりだ。「シェ―」は赤塚不二夫の、「クックロビン音頭」は魔夜峰央のマンガのギャグである。さらに、著者とTは、2人が登場する小説を書きあい、どちらも相手が描く自分が気に入らず、互いのストーリーを添削しあうラリーを続ける。彼らそれぞれの演劇性が、問われているのだ。

 このように2人の対話では、獣と神の世界にはないという物語、幻想、演劇性が俎上にのり、過去をふり返るとともに未来への展望が探られる。つまり、「ラーメン」、「瞑想」、対話で、獣、神、人間の領域をあらわすという多層的な構成なのだ。食、瞑想、対話を繰り返すうちに、彼らの物語、幻想、演劇性に対する態度も変化していく。世界の違う見方があると示した一冊である。

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