小川哲が描き出す、きわめてシビアな火星の現実ーー注目の最新作『火星の女王』を読む
『火星の女王』というタイトルを見て、咄嗟に連想したのが、エドガー・ライス・バロウズの『火星のプリンセス』だ。元南軍の騎兵大尉だったジョン・カーターが、不思議な睡魔に襲われ、気がつくと無数の国家や部族が戦いに明け暮れる火星にいた。そこで武勇を示すカーター。捕虜になったヘリウム帝国の王女のデジャー・ソリスを見かけ、恋心を抱く。彼女を故郷に送り届けようと決意した彼は、波乱万丈の冒険を繰り広げることになるのだった。
ほとんど異世界といっていい火星を舞台にした、ヒロイックファンタジー的な物語だ。創元SF文庫のカバーで武部本一郎が描いた、美麗なデジャー・ソリスはあまりにも有名である。私も中学生の頃に、カバーイラストに惹かれて読んで、主人公の痛快な恋と冒険を堪能した。とはいえ、『火星のプリンセス』が刊行されたのは、百年以上も昔のこと。SFに出てくる火星も、いろいろと変化した。その最新形となる本書で、小川哲が描き出した火星の現実は、きわめてシビアだ。
ホエール社研究部門のシニアマネージャーで生物学者のリキ・カワナベは、地底湖で採掘作業をしている。退屈な仕事だ。火星ではありふれた物質であるスピラミンが、三つの結晶構造パターンを持つことが三年前に判明したが、だからといって何かの役に立つわけではない。ところがカワナベは、偶然、スピラミンの結晶構造の変化を発見する。ホエール社CEOのルーク・マディソンは、その事実をもって、スピラミンが宇宙人だと大々的に発表。地球外生命体の存在を信じ、火星にまでやって来たカワナベだが、マディソンの話には懐疑的だ。
一方、火星生まれの学生のリリ-E1102(以下、リリ)は、二年に一度、火星から地球に向かうFTLに乗るため、遠心型人工重力施設に通っていた。それに合格し、地球の観光に向かおうとしたところを、ふたり組に誘拐される。母親が、火星で強い力を持つISDAの元火星支部長で、今は地球の種子島支局長であることが関係しているのか。目の見えないリリは、誘拐犯との会話などから、さまざまな手掛かりを得ようと奮闘する。
その他に、ISDA種子島支部に所属しており、かつて火星に研修に行ったときリリと知り合った白石アオト。自治警察で働き、誘拐されたリリの行方を追うことになるマル。このふたりも含めた四人の視点で物語は進行していく。地球と火星の関係が悪いこと。四十年前にISDAが火星の開拓に乗り出したものの、採算が合わず、地球に帰還しようとしていること。帰還派と残留派が対立し、不穏な空気が漂っていること。火星を取り巻く厳しい状況が、徐々に分かってくる。このあたりの情報の出し方が実に巧みであり、読者は混乱することなく読み進めることができるのだ。
さらに誘拐犯が地球帰還計画の中止を求める。スピラミンの盗難事件も起こる。ミステリーの興味が強まり、リーダビリティが高まっていく。そして話は、火星の地球からの独立という、大騒動にまで発展していくのだった。
主要人物の四人を、さまざまな形でリンクさせながら、火星と地球を舞台に、ダイナミックな物語が展開していく。〝火星の女王〟というタイトルの意味は後半になって判明するが、なかなか苦いものがある。スピラミンの扱いについても同様だ。令和の作家が描く火星は、経済と政治、人間たちの打算と思惑に塗れているのだ。『火星のプリンセス』のような無邪気さは、すでに失われているのである。
それでも作者は、火星の女王とスピラミンに、希望を見出だす。だからまだ、人間を信じられるのだ。本書は、細部まで緻密に構築されたSFであり、重厚な人間ドラマである。火星を舞台にしたSFは数多いが、そこに必ず加えるべき秀作なのだ。
なお本書は、2025年12月にNHK総合で放送される、放送100周年記念ドラマ『火星の女王』の原作とのこと。どのようなドラマになるのか、今から楽しみにしている。