『8番出口』二宮和也が演じる「迷う男」の心情と変化 小説で明かされる、津波の意味とは?
川村元気監督の映画『8番出口』の勢いが止まらない。8月29日の公開から10日で興行収入が20億円を突破。映画に先駆けて7月9日に発売された川村監督自身による小説『8番出口』(水鈴社)も、紀伊國屋書店の9月3日から9日のウィークリー総合ランキングで4位に入るベストセラーとなっている。この小説が面白い。映画では描かれない登場人物たちの心情や背景を通して、奇妙な世界への恐怖だけではない映画の奥深さを感じ取れるのだ。
映画『8番出口』の公開から3日後の9月1日、映画の公式SNSや公式サイトが「本映画は、無限に続く地下通路を舞台としていますが、津波など自然災害を想起させるシーンがございます。ご鑑賞にあたりましては、予めご注意いただきますようお願い申しあげます」という警告文を出した。こうした警告を受けて映画を観ても、津波のシーンには身に迫ってくるような恐ろしさがあって心を奪われる。
映画を観終わって、どうしてそこで津波だったのかと疑問を浮かべる人もいるかもしれない。ある種のアクシデントとして登場することになる津波が、別のものではいけなかったのかということだが、小説『8番出口』を読むとその理由が分かる。津波というものが登場人物のひとりの心に強い引っかかりを与えていて、それと向き合い乗り越えようとする上で避けられなかった可能性があるからだ。
『8番出口』という映画は冒頭、二宮和也が演じる青年が地下鉄に乗っている最中に、別れることを決めた女性から妊娠を告げられ動揺する様子が描かれる。かたわらでは、泣く赤ん坊を連れた母親に怒鳴る通勤客がいて、青年の中に子供を持つことへのプレッシャーのようなものが湧き上がっていることが感じ取れる。「どうする?」。そんな彼女からの問いかけにはっきりとした返事が出来ないまま、地下鉄を降りて改札を出て通路を歩いていた青年は、気がつくと自分がどこまでも続く通路の中にいることに気付く。
角を右に曲がると壁にポスターが貼られていて、向こうから白いシャツ姿の男が歩いてくる。進みながらすれ違って角を左に曲がり、少し進んで右に曲がってさらに進んで左に曲がりまた右に曲がると、そこには前に見たものと同じポスターが並んでいた。おまけに、前にすれ違ったはずの白いシャツの男まで歩いてきた。どうなっている? 青年はやがて、自分が普通とは違った場所に迷い込んでいて、あるルールをクリアしなければそこから出られないことを知る。
ある種の脱出ゲームを思わせる設定になっているのは、この『8番出口』がKOTAKE CREATE(コタケクリエイト)によって開発された同名のインディーゲームを実写映画化したものだからだ。ゲームのプレイヤーにあたるのが、映画で「迷う男」と称されている二宮が演じる青年で、プレイヤーと同様に通路を進みながら何か異変が起こっていないかを調べ、異変があれば引き返し無ければそのまま進むことで8番出口へとたどり着こうとする。警告にある津波はそうした探索の途中で発生する。
確かに異変だが、ゲームに登場するポスターや看板の間違い探しとはレベルが違いすぎる異変を、映画ではどうして登場させたのか。「長い間付き合っていた彼女と別れたのは、つい先月のことだった。明確な理由や原因があって別れたわけではなかった。ただ数年前に突然起きた“あの出来事”が、僕たちの関係にずっと影を落としていた」。小説の冒頭で二宮が演じる青年の心情として吐露される描写だ。
映画ではまったく触れられておらず、”あの出来事”が、進んでいったストーリーの中で登場した時に、だから津波だったのかと分かる。そして、「迷う男」としか名づけられていない二宮が演じる青年の輪郭が、くっきりとしたものとして見えてくる。
付き合っていた彼女とは故郷の海辺の街で幼馴染みだったこと。やがてバンドを組むようになったこと。そのバンドにはもうひとり男性のボーカルがいたこと。高校を卒業して青年と彼女は東京に出て来て、ボーカルだった男性は残って釣具店を継いだこと。そして大きな地震が起きて故郷の海辺の街には大きな被害が出て、ボーカルだった男性とはそれっきりになってしまったこと。
こうした出来事を経て、残されたふたりに漂い始めたある種の虚無感は、女性が出版社に就職し青年が派遣のプログラマーとして不安定な日々を送る中で濃さを増し、遂に破局へといたる。映画では二宮が演じる青年の煮え切らない雰囲気に別れても仕方がないと感じた人も多そうだが、小説を読めばいろいろと事情があったことが分かる。
映画の「迷う男」からは、子供に対して臆するところがあって、父親になる覚悟もできていないモラトリアムの青年といったニュアンスを感じ取れる。その「迷う男」が「8番出口」を目指して歩く途中で、ひとりの少年と出会い連れだって出口を探そうとする。そこで大きなアクシデントに巻き込まれる展開を経て、自分が子供を持つ意味を考えるようになる。
小説『8番出口』も、こうした覚醒と成長のドラマという点は同様だ。映画にはなかった、コインロッカーと証明写真のブースの間にある毛布の中に誰かがいるエピソードも加えて、「迷う男」に誤った決断が招く罪を強烈に見せるところもある。映画で「迷う男」は最終的にある場所へとたどりついて、前にはできなかった行為に踏み切ろうとする仕草を見せるが、小説は次の行動がより明確に描かれていて、変化をよりはっきりと感じ取れる。
映画で河内大和が好演していた、白いシャツ姿で通路を歩いてくる通称「歩く男」の心情にも迫っている。映画の中でうめくようにこぼした子供に対する感情が、小説でははもう少し具体的なものとして綴られていて、子供を持つことの責任の重要性を示してくれる。人間としての厚みが出たことで、いつまでも無表情で歩き続けるだけになってしまった「歩く男」に、もうやり直せないのかといった悲しみを抱いてしまう。
読めば大いに映画への理解を深められる小説『8番出口』。映画を見ていなくても、2000年代に入っていろいろと起こった社会の構造的な変化であり、幾つもの災害の中で心を迷わせ自信を失ってしまった人たちが、自分を見つめ直すきっかけを感じとれるはずだ。
警告にあった津波は具体的なモデルを持ったものであり、同時に今を生きる人たちの心に残り続けている悲しみと後悔の記憶でもある。それを今、改めてぶつけられる中で映画や小説の「迷う男」が見せた振る舞いから、自分は何をしたら良いのかを考え、自分にとっての「8番出口」を見つけたい。