日ソ戦争は現在と地続きの戦争だったーー麻田雅文『日ソ戦争』に学ぶ、“最後の戦い”の実態
■第2次世界大戦、最後の全面戦争
先日、歴史学者・麻田雅文による『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(中公新書)が、第26回読売・吉野作造賞を受賞した。同書はこれまでにも第28回司馬遼太郎賞や第10回猪木正道正賞、新書大賞2025第2位といった賞を受賞しており、それだけでも並々ならぬ内容であることが伺える。
タイトルの「日ソ戦争」というのは、ミリタリーマニアでないとなかなか耳慣れない名称なのではないだろうか。この日ソ戦争は、1945年8月8日のソ連による宣戦布告に始まり同年9月初旬まで続いた、いわゆる「ソ連による対日参戦」を指している。
このソ連の対日参戦、自分は「終戦間際のギリギリになってソ連が一方的に満州や北方領土に侵攻してきた、火事場泥棒的な地域紛争」「南方に戦力を抽出されていたこともあって、関東軍はほとんど戦わずに潰走した」「ソ連兵が略奪や虐殺を行ない、満州や日本の支配地域から引き揚げる一般市民が壮絶な苦労をした」といったイメージがあった。これらのイメージの中には間違っていないものもあったが、『日ソ戦争』を読むことで大きく認識が改まったものもある。
まず一読して驚かされたのが、ソ連による満州侵攻のスケールの大きさである。満洲国は巨大だ。本書によれば、その総面積は約130万平方キロメートル。現在のドイツとフランスとイタリアの面積を合計したほどの大きさがある。本書では、この広大な国土に侵攻するべく、開戦前からソ連軍は緻密な準備を重ねていたことが語られる。日ソ開戦当時のソ連は長きにわたった独ソ戦に勝利したばかりであり、対独戦に動員した兵士を復員させつつ極東へと戦力を振り分けた。対日戦のために動員した極東ソ連軍の兵士は陸海空全軍含めて174万7465人。恐るべき大軍勢である。一方で本書によれば、満州においてソ連と対峙した関東軍は、44万3590人しかいなかった。
ソ連はこの大軍勢を3つに分割し、ソ満国境の西側・北側・東側から侵攻した。特に西側からのルートは、機械化された部隊が内モンゴルを一週間たらずで走破して満州に突入、そのまま黄海まで到達して関東軍が中国へと移動するのを遮断するというものである。部隊によっては500km以上移動したものもあり、とても「ちょっとした地域紛争」という規模感ではない。この西側からの動きに呼応して北側・東側からもソ連軍は満州に侵攻した。本書に収録された地図を見ると、満州国全土をまるで巨大な万力で締め上げるような機動をとっていることがわかる。戦った期間こそ短いが、確かにこれは「日ソ戦争」と呼ぶにふさわしい苛烈な攻撃である。この攻撃の規模感への認識は、この本で大きく改まった。
大軍勢を動員した猛攻撃にさらされた関東軍と各地の日本軍守備隊。戦闘期間の短さもあって「防戦すらままならず、すぐに壊滅してしまった」というイメージがあった。占守島の戦いは戦車部隊など日本軍守備隊の奮戦で知られているが、対ソ戦で日本軍が強烈な抵抗を示した例はその程度しか思いつかず、関東軍・日本軍の大半は大量のソ連軍を前に一方的に壊滅させられたと思っていた。
本書には、決戦を待たずして司令部を後方に移動させるなど、確かに関東軍が逃げたと言われても仕方のない部分も書かれている。しかし関東軍・日本軍の各部隊は部分的には思ったより粘り強い抵抗を見せており、特に黒龍江を渡って満州に入ったソ連の第2赤旗軍を迎撃した第123師団や、樺太でソ連軍を迎え撃った第88師団の各部隊は短期間ながら激闘を繰り広げていた。日本軍もただ蹂躙されるがままではなかったことがわかる。