和製ポップス、マンガ、SF、ジャズ喫茶、学生運動……亀和田武が60年代ポップカルチャーから培った「笑いとエロと批評性」
ポップに映った学生運動
――本には多くの話題が出てきますが、記述のウエイトが大きいのが学生運動です。
亀和田:SNSの反応をみると好き嫌いが分かれて、SFや町のことが書いてあるのは面白かったけど政治のことはよくわかんねえやって人と、学生運動が書いてあったから面白く読めたという人がいます。1960年代の政治的運動は60年安保(1960年の日米安全保障条約改定に反対する運動)でピークを迎えたけど、国会をとり巻いていた10万人規模の人々は何か月もしないうちに消えて、1965年くらいに運動は低迷していた。1967年くらいに運動を再建しようとなった時、機動隊との衝突で山崎博昭君という僕と同い歳の学生が亡くなり、60年安保の樺美智子さん以来の学生の死者が出た。平和な日本で自分と同世代の若者が殺されたという驚きがありました。
――本にもありますけど、当時の亀和田さんは、学生運動をポップなものととらえていた。
亀和田:僕は趣味で新聞の国際欄を読む可愛い気のない子でベトナム戦争のことも知っていたけど、対岸の火事という感じだった。そういったものに真の免疫がなかったんです。山崎君が亡くなった直後にテレビ局が放送しだして、母親に「大変よ、羽田で警官隊と衝突して学生が亡くなったそうよ」と起こされてテレビをみた。あの頃はもうカラーの時代になっていて、テレビの力は大きかった。画面には白ヘル、赤ヘルなど、セクト別に違う色のヘルメットをかぶってデモにいく学生が映っていた。大学に入っていればそういうことを知っていたんだろうけど、当時の僕はまだ浪人だから知らなかった。連日、警官隊や機動隊と学生の衝突が報じられ、僕もドキドキするようになった。使命感なんかが芽生えてきて、一浪の11月から現場にいかなきゃとなって1人でデモにいき始めたんです。
――学生運動にワクワクする感じがあったわけですか。
亀和田:新宿騒乱(国際反戦デーの集会が新宿駅で騒乱に発展した)があった1968年が一番のピークでアゲアゲでした。70年安保(1970年の日米安保条約自動継続への反対運動)をめぐり、1年前倒しで1969年を政治決戦の年にしようと東大の安田講堂の攻防などが起きた。でも、警官隊との圧倒的な物量差があって、学生運動は負けていく。急進的になった過激な連中が内乱とか世界同時革命みたいなものを志向するようになった。
――1970年代になると一部運動家が過激化して社会と乖離し、1972年の連合赤軍事件(過激派が同志をリンチし殺害)は、学生運動の退潮を象徴する出来事となりました。
亀和田:僕は1970年夏くらいにはもうセクトの運動から離れちゃっていた。あさま山荘事件(連合赤軍残党が人質をとって立てこもった)はテレビで延々と中継していて、食堂でそれをみた酔っ払いのおっさんが「いいぞ、頑張れ学生」というような反応が、まだ世間的にはありました。でも、連合赤軍の内ゲバ殺人が報道され、風向きが変わる。ただ、連合赤軍事件があったから学生運動からみんな引いたとかいわれるけど、それは逆。もう69年時点で完膚なきまでに学生たちが負け、一気に運動に加わる人の数も減ったんです。
――そうです。過激化をみて退潮に転じたのではなく、活動する人が減ったなかで先鋭化した。
亀和田:そういう焦りから、マイナー党派同士が一緒になって連合赤軍ができた。1969年以後、一気にいろいろ煮詰まってきた感があります。
エロマンガ論争を振り返って
亀和田:『喜劇新思想体系』を読んだ時、なんか過剰なものが感じられたんです。何も考えずに絵を描いているマンガとは違うぞって。山上は『少年マガジン』で『光る風』(1970年)というディストピアものを描いていたんですけど、その種のものを通過した人が、なにか鬱屈したものを跳ね飛ばすために笑いとドタバタに進んだのかもしれない。僕が思うに、笑いは絶対必要だというか。マンガを読んで最初に声上げて笑ったのは、赤塚不二夫『おそ松くん』(1962~1969年)だったんです。『おそ松くん』はスラプスティックでめちゃくちゃ面白かった。微温的じゃなくて、筒井康隆さんが影響を受けたマルクス兄弟に通じるようなシュールなドタバタだった。筒井さんは『SFマガジン』デビュー前から、同人誌の『宇宙塵』や乱歩さんの『宝石』でも読んでましたが、『東海道戦争』(1965年7月号)から一気に変化を開始して、腹を抱えて笑ったんです。あと、北杜夫さんのどくとるマンボウシリーズも、日本の笑いとちょっと違う品のいい独特のユーモアがあった。エンタテインメントにとって、笑いはやっぱり必要だと思いました。
――『60年代ポップ少年』文庫版に収録された「ポップ少年のその後」では、自身の1970年代以降の活動に触れられています。
亀和田:エロマンガの編集者(『漫画大快楽』1975年創刊)になった時、古いオヤジ感覚のエロだけではつまらないというのがあった。エロを目当てに買ってくれる雑誌でも、ただ裸だけじゃなく笑いがあったり、なんか変だぞというものが欲しかったんです。ちゃんとしたマンガを載せるだけじゃつまらない。
――亀和田さんが、後に手がけた自動販売機専門の『劇画アリス』(1977年創刊)の編集長を降りられた際、引き継いだのは1975年にコミックマーケットを立ち上げた米沢嘉博氏など『迷宮』のメンバーですよね。時代の転換点に立ちあわれていたような印象です。
亀和田:米沢くんたち『迷宮』から接触があったのが、77年でしたかね。だからその年のコミケ、大田区の産業会館みたいなとこでやった第2回だか第3回、それと翌年のコミケは行ってますよ。
――当時、エロマンガに関し亀和田さんは、論争していたでしょう。
亀和田:山根貞男、権藤晋、梶井純など僕より一世代前の政治と芸術に興味を持った評論家たちは、エロマンガを語る時、やっぱり虐げられた大衆の視線とかに目を向ける。そういう路線に違和感がありました。上品ぶらないで、ただエロマンガとして評価すればいいじゃないかと。でも、そんな論争があったから、ワイワイ楽しくやれたのでもある。
ちょっと堅苦しい話が続いたからいっておくと、ネットをいろいろみていると、「目立ちたがり屋な亀和田は」といって、『劇画アリス』の表2(本の表紙の裏面)に自分の(ただの上半身ですよ)裸を載せた写真がどんどんコピペされている(笑)。『劇画アリス』を始める時、『漫画大快楽』の檸檬社にいた僕と小向一実さん、あと事務の人と3人でアリス出版を立ち上げた。自販機でしか買えないエロ雑誌と写真集をやるのも面白いかなと、表紙に可愛いモデルを使ってストーリイ性をもたせてどんどん売れたんです。でも、次の手を考えなければいけない。当時『ポパイ』(1976年創刊)全盛期だったから、エロ情報をあの雑誌のレイアウトに似せて載せたりした。社長の小向さんは「亀ちゃん、ほかとは違ったことをやらなきゃダメだよ」という。当時会社に日系2世の人が出入りしていて、アメリカのエロ雑誌を持っていた。『プレイボーイ』なんかより過激な『ハスラー』という雑誌があって、ラリー・フリントというオーナーが自分の写真を載せ、「ファック」みたいな言葉を連ねて俺たちはエロに命かけてんだぜという風にアピールしていた。小向さんから「亀ちゃんもこれくらいやらなきゃ」といわれ、僕の上半身裸の写真の上に、“この雑誌でマスかいてくれりゃ上等だぜ!”とアジテーションするコピーで煽ったんです。
――亀和田さんが、エロ劇画界のジュリー(沢田研二の愛称)と呼ばれていた頃ですね。
亀和田:そう呼ばれていました。でも、よく「自称ジュリー」と書かれるけど、自称するわけない(笑)。あれは、昔から仲がいい山口文憲が面白がってアリスに遊びにきて、昔の愛称で呼んで、編プロもやっていた戸井十月も仕事の売り込みにきて、彼もやはり昔のように「ジュリー」と呼ぶ。十月の子分たちも、アリスの下請け仕事するようになったから、会社に前からいた連中も、仕事を発注したので出入りするようになった『迷宮』の連中も、そんな「ジュリー」とか「ジュリーさん」とかの呼びかけにビックリしての“自称ジュリー”でしょうね。
――話をうかがっていると、「笑いとエロと批評性」ってその後の亀和田さんの指針になっている感じですね。
亀和田:そうかもしれない。エロマンガ雑誌をやっているんだったら、自分の現場のなかで変えていかないと面白くない。だから、僕にしては珍しく使命感のようなものももってやっていましたね。
■書誌情報
『60年代ポップ少年』
著者:亀和田 武
価格:1,210円
発売日:2025年5月22日
出版社:中央公論新社