「元気じゃなくてもいいから生きていてほしい」 精神科医・宮地尚子に聞く、“傷を抱えながら生きる”ということ

人が傷つくことの根っこはあまり、変わっていない

――別のご著書、『傷を愛せるか』の冒頭にもあるように、傷ついている人に対して何もできない、見守っているしかないというのも、苦しいですしね。

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』(ちくま文庫)

宮地:そうなんですよね。でも、何もできなくても見ているだけでいい、そこにいるだけで救われる人もいるはずだということを、『傷を愛せるか』では書きました。傷つきの根にあるものは、昔も今もあまり変わっていないように感じるのですが、社会に余裕がなくなって物事が忙しなく進み、加速していくなか、とにかく早く立ち直って次の一歩を踏み出せるほうがいい、という流れが強くなっていると思うんですよね。それこそ「いつまでも引きずっていないで」と、励ましのつもりで追いつめてしまうことも。

 でも、たとえばダイビングで深い海にもぐったあと、半日以上あけないと飛行機に乗ってはいけないんです。乗ると危険なんですよね。同じように、心の深い場所にもぐりこむような経験をしたあとは、やっぱり、日常に戻るまでに時間がかかるものなんです。傷ついた経験に限らず、旅行をしたあとだって数日はふわふわと心が浮いて、旅先に気持ちが残ったままということもあるでしょう。それはけっして悪いことではないし、気持ちの切り替えを潔くできることにばかり価値を置くのも、どうなのかなあと思います。

――おっしゃるように、余裕がないからではあるのですが、いかに時間を効率的に使えるかを重視してしまうし、できる人に憧れる気持ちもあります。

宮地:ほとんどの人は、できているふりをしているだけ、のような気もしますけどね。SNSの種類にもよるでしょうが、InstagramやFacebookで披露されるのはたいてい充実している姿で、それと比べて自分はなんでこんなに何もできないのだろう、退屈な日々を送ってばかりだ、と落ち込んでしまうかもしれない。でも実際は、悩まない人も傷つかない人もいませんからね。私も、仕事に対する不安を吐露すると、驚かれることが多いけれど、みんな言わないだけ、見せないだけということは、たくさんある。「先生もそうなら、安心する」と言われると、もっと表に出したほうがいいのかな、と思ったりもしますね。

――だからこそ『傷のあわい』のようなエスノグラフィーが必要なのかなとも思います。誰かの物語に自分を重ねて、共感したり、一緒に傷ついたりしながら、自分だけじゃないと思える。あるいは「こんな考え方、乗り越え方もあるんだ」と励まされたりもする。

宮地:私自身、最後の章である「GOOD BYE=THANK YOU」では、インタビューをしながら救われる部分がありました。語ってくださった方のあたたかみに触れて、おいしいものを食べさせてもらえたような気持ちになったし、実際においしい夕食の団らんにも混ぜていただきました。お話を聞きながら、彼女の芯の強さがたちあらわれるのを感じました。そして、〈捨てるのは、無駄にすることではなくて、卒業すること。何かを失うということは、きっと何かと巡り合う前奏曲であるということ。〉と気づかされたのです。ひとつめの「孤独の物語」と対比する構造にもなっていて、読み直した時に不思議な感覚を味わいましたね。とくべつ意図したわけではないけれど、1冊の本として、こんなふうにきれいにまとまるものなんだなあ、と。

――「孤独の物語」とのいちばんの違いは、夫が妻の異変に気づいて周囲にSOSを発したということで、やっぱり、追い詰められているときは声をあげることも必要なんだなと思いました。手を差し伸べてくれる人が増えて、おのずと選択肢も増えていく。

宮地:北海道に、精神疾患を抱えた方たちの活動拠点となっている「べてるの家」という福祉法人があるのですが、そこでは「弱さの情報公開」という言葉が使われています。弱さを隠さず、助けを求める力が、やっぱりとても大事なのだと。「孤独の物語」の方も、ご本人が私にSOSを発してくれたからこそ、お話を聞くことができたんですよね。そのことが、彼女にどの程度の影響を与えたのかはわかりませんが、答えを見つけられなくてもひととき心がラクになったり、進むべき方向がほんの少し見えたりするかもしれない。そうであってくれたらいいな、と思いながら、私も臨床や研究を続けています。お話をしてくださったみなさんが、今どんなふうに過ごされているかわからないし、今なお傷つきのなかにいるかもしれないけれど、それでも、元気に、いえ元気じゃなくてもいいから生きていてほしいというのが、私の願いです。

――『傷のあわい』のまえがきに、傷つきについて書いたつもりはなかったとありました。ただ、一生懸命に生きている人たちの姿を描写し、伝えたかったのだと。でも、より「傷」に焦点をあてた『傷を愛せるか』をあわせて読むと、重なるものがたくさんありました。

宮地:そうですね……。当時は、人々がどんなふうに海外生活に適応しているのか、あるいはしきれずに、葛藤を抱えながらどう生きているのかに関心がありました。自分がその後、トラウマやPTSDについて研究するようになるとは思ってもみませんでした。でもたしかに、今の仕事にいたるまでの種がそこかしこに撒かれていたなあと、読み返していて感じましたね。葛藤したり、一つのことに対してアンビバレントな感情を抱くことは、人間として自然なことだし、そういう自分でいてもいいんだと思えることが大事だということも。矛盾した心を抱えながら、今も生きている。そのこと自体が尊く、そして愛しいことだと、それぞれの人のお話を通じて、感じています。

――傷つかないようにすることより、傷ついてなお生きていくにはどうすればいいのか、自分の心を見つめることが必要なんだなと、今日お話を聞いていても思いました。それがいちばん、苦しくて難しいことでもあるんですけれど。

宮地:個人的には、若い人たちにはどんどん、海外に出ていってほしいですね。日本の常識がまったく通用しない場所で暮らし、自分の信じてきたことがすべてではないと思い知ることで、逆に生き延びやすくなることもあると思うので。もちろん、本書に登場する方々が語っておられるとおり、海外に移住することでの傷つきもたくさんあるけれど、場所を変えるだけで、見える景色が変わって、考え方も大きく変わり得ますから。自分の当たり前が相手にとっても当たり前だと思い込んでしまうことがいちばん、社会を息苦しくさせていく原因だと思いますしね。根幹をぐらつかされるくらいのカルチャーショックを受けることは、ときに必要なんじゃないでしょうか。それによって、「これまで悩んでいたことはなんだったんだ?」と思えるようになるかもしれない。

――宮地さん自身、いろんな方とお話をするなかで気づきを得たり、自分のなかにある差別意識にはっとさせられたりしているところも、印象的でした。

宮地:『傷のあわい』も『傷を愛せるか』も初版が刊行されたころはSNSもなかったし、社会のありようは全然違っていたと思うんですけど、先ほども言ったように、人が傷つくことの根っこはあまり、変わっていないと思います。みんな同じように戸惑ったり転んだりしながら、どうにか起き上がって、傷を抱えつつ生きている。その姿に触れて、なにか感じていただけるものがあれば嬉しいです。

■書誌情報
『傷のあわい』
著者:宮地尚子
価格:880円
発売日:2025年4月10日
出版社:筑摩書房

『傷を愛せるか 増補新版』
著者:宮地尚子
価格:792円
発売日:2022年9月8日
出版社:筑摩書房

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