コピーライター・梅田悟司 × 歌人・岡本真帆が語り合う、“言葉”との向き合い方「違いを認めることが言語化の本質」

 ジョージア「世界は誰かの仕事でできている。」やリクルート「バイトするなら、タウンワーク。」などのコピーライティングで知られる梅田悟司の新刊『言葉にならない気持ち日記』(サンクチュアリ出版)が5月2日に発刊された。言葉にならない日々のモヤモヤを見事に言語化した、心がすっと軽くなる新感覚のエッセイだ。

 今回は『言葉にならない気持ち日記』刊行に際して、4月7日に自身が愛するさまざまなものを綴った『落雷と祝福「好き」に生かされる短歌とエッセイ」』(朝日新聞出版)を発刊した歌人の岡本真帆との対談を行った。

 コピーライターとして活躍する一方、言語を通じた事業支援や大学教員としても活動している梅田悟司。なにげない日常を切り取り、若い世代から支持を集めている歌人の岡本真帆。フィールドは違えど、言葉のプロフェッショナルとして注目される2人に、自身の表現と、最近ブームになっている「言語化」について語ってもらった。

「0.5秒のストレス」と「0.5秒の喜び」

梅田悟司『言葉にならない気持ち日記』(サンクチュアリ出版)

ーー2人は今回が初対面と聞きました。お互い、相手にどんなイメージをお持ちでしたか?

梅田:岡本さんの本は以前から読ませていただいて、岡本さんの文章に惹かれるのはなんでなんだろうとずっと考えていたんです。3分前ぐらいに答えが出まして「思い出に働きかけてくるから」なんだろうなと。岡本さんと僕の思い出は違うんですけど、僕の思い出に働きかけてくる。これを共感と呼ぶのは薄い気がして申し訳ない。僕に見えていた世界が岡本さんにも見えていることがすごくうれしい、胸に来るってことなんだと思ったんです

 岡本さんの短歌ですごく好きなのが「沈黙の石焼き芋をゆっくりと割れば世界にあふれる光」という歌。僕にも光が見えていたんです! 自分の思い出と、見える見えないの掛け合わせの中で、そこに共感するところがあるのかなと思います。

岡本:ありがとうございます。私はコピーライターをやっていた頃に『「言葉にできる」は武器になる。』を読ませていただいて、自分の内側に向かっている言葉をすごく大切に拾っていく方だなと思っていました。そんな、言葉にすることを勧めていた方が、今度は「言葉にならない気持ち」に向かったので、なんか面白いなと受け止めていたんです。

 今回の本で「エスカレーターの右側だけ開ける」ことについて嫌だと書かれていて、これはみんながすごく感じていることだと思うんです。先ほどの石焼き芋の短歌と比べると、最後のアウトプットの形がすごく個人的なところにいくか、みんなの共通項のところにいくかという違いが、私と梅田さんの間にあるのかもと思います。私は自分が見逃してきた、すごく些細で具体的なものを見つけて書くということをやってきているので。

梅田:僕もコピーライティングでは、些細なものを見つけにいくというのが、基本的な仕事だと考えています。マーケティングでインサイト(潜在的な欲求)という言葉がありますが、僕はインサイトを見つけようとして見つけられなかったんです。そこで編み出したのが「0.5秒のストレスを忘れないようにする」という技でした。岡本さんの些細な瞬間を見つけることに近いと思ったんですが。

岡本:梅田さんの表現に対応するかたちで言い表すとしたら、私の場合はたぶん「0.5秒の喜び」です。短い言葉だけど、梅田さんとはすごく近いところにありながらちょっとずつ違うっていうのを、強く感じます。

ーー同じ些細なことでも、見つけ方が違うところが興味深いです。2人は見つけたときにメモをとったりしているんですか?

岡本:これはいいなって思ったときはメモすることもありますが、精神的な余裕がないときは、そういうものに気づけないことが多いです。そういうときは机の前に座って最近あったことを思い出して、それをいったんメモして、その欠片がどうしたら短歌になるかなとかやっています。なので、すぐ短歌にすることもあれば、欠片をあとから集めることも、両方あります。

梅田:僕は現在進行系のことは、言葉にできないタイプなんです。ただ、原稿を書くときに漠然と思い出すのは難しいので、状況を設定して目をつむって思い出すタイプです。たとえば今回の本でいうと、生活とか友達とか会社とか、状況を狭めて思い出す。思い出しながらこういうところあるなって、紐解いていくやり方です。

 ただ、些細なことを見つけることって、高度な作業だと思うんです。過去を思い出していると、普通はだいたい大きな買い物をしたとか転職したとか、大きい思い出が出てきます。その大きい思い出を横にやってかきわけて、些細なことを探し出していく。そっちのほうが自分らしさが出てくると思うんです。そういうことを、僕はずっとやっています。

それぞれの創作の仕方

岡本真帆『落雷と祝福「好き」に生かされる短歌とエッセイ」』(朝日新聞出版)

ーーものごとを言語化するにもそれぞれやり方があるようですが、どのように身につけていったのでしょうか。

梅田:僕は先輩から「人の気持ちがぜんぜんわかっていない」って言われていたんです。ただ、広告の仕事をするなら企業のこと、商品のこと、なにより人の生活がわからないといけない。心の琴線をすごく繊細にしていないと気づけないものがあるので。そこであるトレーニングを行っていました。渋谷のスクランブル交差点のところにあるTSUTAYAから下を眺めて、歩いている人たちの心の中には僕よりもひどい地獄があって、それでも強く生きているんだってことを感じるトレーニングです。

ーーそれはどのような効果があるんですか?

梅田:渋谷を歩いている人たちは、一見、幸せそうに見えます。そして、何よりも、自分がいちばん大変だと思いがちです。でも、それぞれみんなコンプレックスを抱えて困っているって思えるようになると「広告でこういうメッセージを発信したら救いになるかもしれない」、本を書くときも「読む人の救いになれるかもしれない」と考えられるようになるんです。みんな困っているという前提です。そこに立脚点を置くと「自分にはなにができるのか」にフォーカスできる。そういうトレーニングをしていました。

 ひとりひとり、個人の中には「この世界よりも広い世界」があると思うんです。この世界は共有されている世界であって、個人の中にある世界のほうが本当は広い。人はこの世界というより、思い出の中で生きている感じだと思います。みんなの思い出、自分の思い出を探っていくということをよりどころに、創作活動や仕事をしている感覚なんです。

岡本:私の中で大きかったのは、やっぱり短歌を作るということと、歌会です。短歌でいうと、私はもともと世の中に言いたいことはまったくなくて、今もそんなにありません。ただ、コピーライターの仕事をしているときに、自分の言葉を磨いていきたい、自分だけの表現をしてみたいと感じ始めて、そこに短歌があったんです。短歌は五七五七七の定型詩なんですが、そういう器があるおかげで、言いたいことが特になかった私でも歌を作ってみることができたんです。

 最初は本当にへたくそで31音で短歌っぽいものをどうやったら作れるんだろうというところから始まって、名歌と呼ばれる歌を見ていくうち、なんか暗唱性があるなとか、なにかわからないけど惹かれるなとか感じるようになって。自分もそういう歌を作ろうと試していって遊びながら、ひとつの新しい筋肉がついていった感じがあります。

 もうひとつが歌会です。歌会は参加者それぞれが作った歌が無記名でプリントされた一枚の紙を渡されます。互いにそれを見ながら、この歌はどういう意味なのか、この表現はどうなのか言い合うんです。最初はみんな言葉にするのがうますぎて私はなにも言えなかったんですけど、参加しているうちに自分がどう解釈したのか、どんな感情があふれたのか言えるようになっていったんです。そのうち、働いていた会社でも説明がわかりやすくなったとか言われるようになって、短歌を読むこと、短歌の解釈を言葉にするということで磨かれていったんだと実感するようになりました。

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