『サブスタンス』と「血みどろ臓物ハイスクール」の共通点とは? エクストリームな表現で露わにする、世界の歪み

『クィア/QUEER』と『サブスタンス』の根本にあるもの

 男性と男性の関係性を描いた映画『クィア/QUEER』(2024年)が封切られた1週間後に、今度は女性と女性の戦慄の絆を狂写した映画『サブスタンス』が公開される。この2本が続けてスクリーンに姿を現すことは、両者が孕む共通項ならびに作品の連続性を考えると、実に興味深く、かつ意義深い。(参考:どクズ野郎のバロウズが生んだアートそのものを映画にーー『クィア/QUEER』は単なるロマンス映画ではない

『サブスタンス』はカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞し、アカデミー戦線にも参入した注目作。元人気女優のエリザベス(デミ・ムーア)は加齢に伴い仕事が減少、絶望から謎の再生医療「サブスタンス」に手を出してしまう。自分の細胞から「フレッシュな肉体」を作り出すそれは、エリザベスの内部より新たな身体「スー(マーガレット・クアリー)」を生成。エリザベスはスーの肉体を活用し、再びスターダムへと昇りつめるべくハリウッドを疾走する。古い肉体(エリザベス)と新しい肉体(スー)、人格はひとつ。……の、はずだった。次第にエリザベスはスーに対し嫉妬を覚え、スーはエリザベスに侮蔑の感情を抱く。肉体と同様に分裂していく精神。そしてサブスタンスに課された「遵守すべきルール」をエリザベスとスーが破ってしまった時、彼女たちの肉体におぞましい変容が……。

『クィア/QUEER』がジャンル分類上「ドラマ」ならば『サブスタンス』は「ホラー」の棚に並べられておかしくない内容だ。異なるジャンル性を有するこの2作に対して、男と男、女と女という構図のみを切り出し同じ俎上に載せることもできるのだが、入口としては広すぎるのでより焦点を絞りたい。

 両者の根本にあるのは、肉体と精神の変容である。『クィア/QUEER』におけるドラマの核心、ウィリアム・リー(ダニエル・クレイグ)からユージーン・アラートン(ドリュー・スターキー)に向けられるみっともないほどの愛は「断薬症状によって感情の昂ぶりをコントロールできなかったため」と原作者のウィリアム・S・バロウズにより説明されている(同作はバロウズの回顧録でもある)。つまり、肉体の変化が精神に影響し「愛」の物語が紡がれたわけだ。

 バロウズは作家デビュー以前より、ドラッグを用いた精神世界の探求と、ひとりで別人格を演じ分けるロールプレイ(ルーチン)をジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグらと行っていた。この経験がバロウズの諸作を貫く「変容」の表現と連関していることは間違いない。既存の文章を破壊して組み直す技法「カットアップ」の発明もそうであれば、作中のいたるところで顔を出す人間の肉体がグロテスクに変化する様を詳述するイマジネーションにもそれは顕著である。後者に拍車をかけたのは、かつて医師を志したバロウズの医学への興味だろう。手術・解剖といった医療行為は肉体の深部を覗き見る、日常生活では決して表に出ない器官(秘部)を露出させることでもある。崇高な行為である医療に潜む、残酷で猥雑な面をバロウズは自作で表出させてみせた。ここにおいてバロウズは臓物飛び散るスプラッター・ホラーと親和性を見せる。

 バロウズが放った肉体を変容させるグロテスク表現、そして器官に対するフェティッシュな目線を拡張した小説家が「器官切除」のマイケル・ブラムラインならば、それを映像の分野で花開かせたのがデヴィッド・クローネンバーグである。バロウズの作品に魅了され生物学者を目指していたクローネンバーグは、その道程を含めてバロウズと重なる点を多々持つ。人間が狼男に変身する、人体がデタラメに変形して人を喰うなど、特殊効果をフィーチャーした表現が百花繚乱していた70~80年代ホラー映画シーンにおいてクローネンバーグが異色であったのは、そこに器官を凝視する科学者的な冷たい視点と、肉体の変容と同時に形を変えゆく精神を丹念に描く筆致を持ち込んだことに他ならない。ゆえにクローネンバーグはホラー映画のサブジャンル「ボディ・ホラー」の筆頭とされる。

 言い換えると、ボディ・ホラーとは単に肉体が変形することを指すのみならず、器官が本来の用途を離れて変形する「意味の喪失と再構築」、そして「肉体に連なる精神の変形」を同時に見出だすことで初めて要件を満たす。人体がグチャグチャに破壊される「だけ」ならそれはスプラッターなのだから。そう定義づけると、カットアップとボディ・ホラーの類似性を見ることもできるだろう。

 実際に『クィア/QUEER』においてもこの点に自覚的な描写が見られた。第3幕、南米にてテレパシー効果のある麻薬「ヤヘ」でトリップするシーンである。ここでリーとユージーンの肉体は溶け合い、また口から内臓がまろび出るグロテスクな表現も顔を出す。原作に無かったトリップ描写を映画に付加したことは、物語にダイナミズムを与える効果を有したと共に、ルカ・グァダニーノ監督から肉体変容描写の表現者バロウズへの目配せと解すことができる。禁断症状によりアラートンの肉体(ボディ)を激しく欲したリーは、トリップの中でセックスを超越し器官の融合へと至るのだ。肉体の触れ合いから器官の交歓へ、バロウズのセクシュアリティとボディ・ホラー表現は直線状につながることを看破した点も『クィア/QUEER』において評価されるべき点と言える。

フェミニズム・ホラーの潮流で評価されたコラリー・ファルジャ監督

 さて、この観点より『サブスタンス』を再びジャンル分けするならば、それはボディ・ホラーとなろう。事実、コラリー・ファルジャ監督はクローネンバーグ作品に対して「影のように自分に一生ついてくる」とリスペクトを表明しており、その影響は明らかだ。つまり『サブスタンス』はバロウズ=クローネンバーグのラインに連なる作品と言えるわけで、シームレスに『クィア/QUEER』と結ばれるのである。……と、ここで論の歩みを止めてしまうのも妙味に欠けるし、そこはあくまで『サブスタンス』の一側面でしかない。先に述べた女と女の構図に向き合わない限り『サブスタンス』をいくら語れども片手落ちとなってしまう。

 ファルジャは前作『REVENGE リベンジ』(2017年)でその名を映画界に響かせた。男性と女性の血みどろ一騎打ちをビビッドに描き出し、デビュー作とは思えない隙の無さで観るものを圧倒。また、ジャンル映画不毛の地として知られるフランスより出現した作品であることも話題の後押しとなった。ゼロ年代にアレクサンドル・アジャ監督作品『ハイテンション』(2003年)、パスカル・ロジェ監督作品『マーターズ』(2007年)、アレクサンドル・バスティロ&ジュリアン・モーリー監督作品『屋敷女』(2007年)、ザヴィエ・ジャン監督作品『フロンティア』(2007年)といった過激なニューエイジ・ホラーが流星群のごとく登場したフランスは、同時期にジャンル映画の爆心地として注目された。しかしその流れは続かず、国内でも依然としてジャンル映画への出資を渋る傾向は変わらなかったようだ。しかしジュリア・デュクルノー監督作品『RAW 少女のめざめ』(2016年)が新風を吹き込んだ。

 性欲とカニバリズム衝動の交錯に苦しむ少女の姿を描いた同作はフレンチ・ホラーという小さな括りではなく、女性監督によるフェミニズム・ホラーとして高く評価を受けることに。「ホラー映画と言えばサービス的なエロスがつきもの!」という言説は今なお色濃く、そして過去の映画群にも明らかだ。だがそれは男性の目線によるもの。その目線を対岸より直接見据える女性からのまなざしに貫かれたホラー映画が『RAW 少女のめざめ』を嚆矢として注目を集めるようになった。『REVENGE リベンジ』もまたその潮流に乗り世に放たれ、評価を得た一本である。

 ファルジャは幼い頃からジャンル映画に惹かれ、その制作を志してきた。『REVENGE リベンジ』を企画するにあたり、彼女が念頭に置いていたのは『ランボー』(1982年)と『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015年)だというから筋金入りだ。ジャンル映画を志向する中で、ファルジャは「女性として生きることそのものがボディ・ホラーである」との考えを得た。『RAW 少女のめざめ』において第二次性徴と恐怖が結びつけられたことと、考えの根源は同じところにあると言えよう。さらに自分の身体が日常的に男性からの有害な目線に晒されることに対しても同様だ。その思想が『サブスタンス』を串刺しにしている。ゆえにボディ・ホラーという点においてバロウズとクローネンバーグの同一線上にありながらも、本作のそれは性質が異なっている。

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