もっと「おもしろい」人間として生きろーー町屋良平『私の小説』に纏わる拭いようのない疚しさ

 〈つまらない私の異常さをおもしろくすることはできない。私のつまらないインモラル、私のつまらない反社会性、私のつまらない性癖を。そもそも私たちは創作しているというその時点で加害的で、被害者の顔をすることはむずかしく、フィクションの登場人物にそうさせるように、自分や誰かの人生をおもしろいとおもい、そうなるように寄せて考えること自体危うい、ますます危ういものとなってゆく。〉

 「私小説」は「小説家」に、もっと「おもしろい」人間として生きろ、あるいは、誰か「おもしろい」人間を探し出せと絶えず要請する、危険で加害的な装置である(そのくせ「これはフィクションである」という免罪符まであるからなお厄介だ)。だから半ば自虐的に「人生が「中間」なのかもしれなかった」と口にする「私」の脳裏には、このような自省的で、苛烈な批判の声が響くのである。「作家なんだから、もっと破壊的に生きたら? 生活がすごくつまんな」。とはいえ、フィクションを「おもしろい」ものにするために自他の人生を脚色するのもまた「危うい」のであって……と、ことほどさように「私」が、自意識と社会意識と加害意識と職業意識とに雁字搦めにされた結果、本作はきわめて不安定で掴みどころのない作品となっている。

 「私」は『私の小説』の最終章「私の大江」で、大江健三郎からの影響を回想しながら、いまは亡き作家に向けて「大江よ、小説とはいったいなんなのでしょうか?」と問いかける。ここでその壮大な問いに答えることは難しいが、本書で「私」は「小説」を「正直になりきることも偽りきることもできない言葉の状態」と呼ぶ。当たり前と言えば当たり前の話だが、これは本書の「私」が置かれた苦境を的確に切り取った言葉だと思う。実際、本作で明らかにされた「私」の姿も、いったいどこまでが事実で、どこからが虚構か、読者には(そして多分作者にも)正確にはわからない。だが、このいかがわしさにこそ「小説」というものにとっての、淡い光明があるようにも思う。

 「私の批評」で「私」は「現代文学」を「批評」してこう書く。「いまの私たちは言葉と現実の関係を信じすぎていて、その楽観こそが「現代文学」の特徴とさえ考えている」。「現代文学」においては「楽観」視されている「言葉と現実の関係」に疑義を差し挟み、本書で町屋は、その「関係」を改めて検分する。読者の「信」に揺さぶりをかける。そのようにして「言葉と現実」の関係を「信じすぎ」るのではなく「半信半疑」のままにしておくこと。あるいは、あらゆるものに対して「中途半端」な状態であり続けること。簡単そうに見えて、たぶんこれはなかなか辛抱がいることだ。本書がどこか不気味なのは、ほとんど奇跡的な塩梅で、それをやってのけているからにほかならない。

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