劇作家・唐十郎さん、小説家としての「顔」虚実の境界を弄ぶ“創作術”と迷宮へ誘う“物語”

■戯曲と同様の実体とイメージとの対比

  また、第55回読売文学賞戯曲・シナリオ賞、第38回紀伊國屋演劇賞(個人賞)、第7回鶴屋南北戯曲賞、第11回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞した『泥人魚』(2003年初演)には、認知症の詩人、義眼の漁師が登場する。同作で焦点となるのは、義眼の漁師に海で助けられた養女が、ウロコを付けて泥水のなかで泳ぐ人魚になるというモチーフだ。この設定にも、唐が活動の初期からこだわる肉体のテーマがうかがえる。

 『泥人魚』の場合、埋め立ての是非が問われ、湾を分断するギロチン堤防の映像がニュースで盛んに流れた諫早湾の干拓問題を背景に書かれている。泥水という劇中要素もその問題に起因する。また、同作には地元出身の詩人・伊東静雄を模した「伊藤静雄」が認知症の詩人として登場した。

  しかし、この芝居は、社会問題を告発するような方向づけはされておらず、現実の要素を織り交ぜつつ、作者が制約をもうけず想像を広げるところに面白さがある。それは、かつて『少女仮面』において、大逆事件で大杉栄らを殺害し、満州国での暗躍後に自殺した歴史上の陸軍軍人と同名の「甘粕大尉」を「春日野八千代」と出会わせた初期からの手法の延長線上にある。

  虚実の境界を弄ぶ唐の創作術は、小説にも活かされていた。小説における彼の代表作『佐川君からの手紙』は、フランスで日本人留学生・佐川一政がオランダ人女性を射殺し、彼女の肉を食べた1981年の実際の事件を題材にしている。小柄な日本人の佐川が大柄な西洋人の被害者を殺害した同事件の報道では、加害者の抱えたコンプレックスなど精神分析的な解釈が多くされた。だが、『佐川君からの手紙』の狙いはやや異なる。

  事件に関しては唐の監督で映画化する案が実際にあり、彼は佐川と手紙のやりとりをしたという。小説はその事実をもとにしている。だが、同作では「佐川君」と被害者の関係を、スウィフト『ガリバー旅行記』の巨人国のエピソードや、ゲーテ『ファウスト』の悪魔メフィストとファウストの関係と対比する。他のフィクションと関連づけつつ、加害者の相手へのあこがれをクローズアップするあたりは、実体とイメージのズレを描いた『少女仮面』の頃からの作法を小説にも導入したととらえられる。

  また、『佐川君からの手紙』では、人肉食という究極の“肉体関係”が当然、興味の焦点となるが、物語で鍵となる人物は、「佐川君」と面識があり、被害者についても知っていた美術デッサンのモデル、K・オハラだ。このアジア系女性は、モデルとして裸になるものの、性的サービスを職業としているのではない。美術として描かれるために見られ、見る者のイメージをかき立てるための存在である。人肉食という度を越した身体接触とは正反対の非接触を旨とする立場なのだ。ここにも、実体とイメージの対比という戯曲と同様の発想がみてとれる。

  そもそも『少女仮面』の「甘粕大尉」、『泥人魚』における伊東静雄を連想させる「伊藤静雄」と同様に、著者は『佐川君からの手紙』の「佐川君」を実際の加害者に肉迫しようとして書いたのではない。同作は「からの」と銘打ちつつ、作中の手紙のやりとりは、著者=唐十郎を思わせる語り手による「佐川君“への”手紙」に力点をおいた内容である。実体とイメージの遊離というテーマは一連の代表的戯曲と共通しつつ、手紙が物語の核となる点が、文字で表現する小説らしい趣向となっている。

  唐十郎の肉体は、確かにこの世を去った。だが、彼が遺した物語は、実体とイメージの間で揺れ続け、触れる者を迷宮に連れこむことを未だやめないのだ。

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