杉江松恋の新鋭作家ハンティング 古典作品の本歌取りを行った謎解き小説『毒入りコーヒー事件』
ああ、なるほど。だからチョコレートがコーヒーにずらしてあるのかな。
と、未読の人にはなんだかわからない感心の仕方をしてみた。今回取り上げるのは、朝永理人『毒入りコーヒー事件』(宝島社文庫)である。
マニア的なミステリー読者は、この題名を見てすぐに反応するはずだ。アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』(創元推理文庫)を想起するからである。というより、これほど似た題名をつけるからには、その本歌取りをしていると受け止められてもしかたない。果たして作者にその覚悟はあるのか、といきり立つわけだ。
マニア要素の説明は後回しにして、とりあえず『コーヒー』のあらすじを述べる。舞台となるのは少々山間のほうに分け入ったところにある一軒家だ。そこでは箕輪家の人々が暮らしている。家族とは離れて生活している箕輪まゆが、ひさしぶりに家に戻ってくるところから話は始まる。まゆの兄である箕輪要は十二年前に亡くなった。その十三回忌なのだ。家族だけの集まりなのだが、大出・小檜山という二人組の男性がそれに加わる。山中で道に迷って放浪しているところをまゆに拾われ、雨宿りのために箕輪家に連れてきてもらったのだ。道路が冠水したため村から出られなくなり、二人はさらに一宿一飯の恩義に与ることになる。
変事が起こるのはその晩で、まゆの父である箕輪征一が死んでしまったのだ。実は箕輪要の死因は病気などではなく、自殺と考えられる状況下だった。自室には遺書らしき封筒が遺されていたが、奇妙なことにその中に入っていたのは何も書かれていない白紙だったのである。征一の死体は、要の遺体が発見されたときをなぞるような状態で発見された。白紙の遺書と、毒が入れられたと思しきコーヒーカップだ。
征一の死が他殺なのだとしたら、犯人はその晩箕輪家の中にいた者以外にはありえない。通行止めのため、周囲には誰もいなかったのだから。最初に嫌疑を向けられるのは当然よそ者の大出と小檜山のよそ者二人だ。彼らは一時の猶予を願い出て、事件について調べ始める。
こうした状況設定で、本家『毒入りチョコレート事件』とはだいぶ赴きが異なっている。英国作家アントニイ・バークリーが一九二九年に発表したこの長篇小説は、製菓会社から送られてきたチョコレートを食べた夫婦のうち妻が死亡するという事件を扱ったものだ。犯罪研究会なる集まりを主宰する素人探偵のロジャー・シェリンガムは、その真相を推理しようとする。彼だけではなく、犯罪研究会の面々が自分の推理を述べるので、小説の後半ではそれらが順次開陳されていくのである。
このように一つの事件に対して複数解が呈示される形式のミステリーを多重解決ものと呼ぶが、その元祖と見なされる古典が『毒入りチョコレート事件』だ。バークリーは同作の前に「偶然の審判」という原型短篇を書いていた。展開はほぼ一緒なのだが、短篇と長篇では結末が違う。短篇で正解とされる推理が長篇では引っくり返され、その後さらに別の推理が述べられるのである。このように、論理が別の論理によって取って代わられるのが、多重解決ものの興趣だ。これに魅せられた作家は多く、近年では白井智之『名探偵のいけにえ』(新潮社)という画期的な作品も書かれている。
以上、ミステリー史のお勉強おしまい。『毒入りコーヒー事件』は、外観だけ見ると『毒入りチョコレート事件』とはかなり異なる。関係者が一箇所に閉じ込められる、いわゆるクローズド・サークルものになっていて、容疑者が箕輪家の人々に限定されるのが最も大きな差異だ。話の展開もかなり異なり、あ、これは題名は似ているけど『毒入りチョコレート事件』の趣向ではないのかな、と思うところまで謎解きは始まらない。本家の場合は事件の紹介は前置きみたいなもので、推理部分が主なのである。『毒入りコーヒー事件』はそれ以外の部分、たとえば実家にいづらさを感じて離れてくらしている箕輪まゆが屈託を語るくだりであるとか、人間ドラマの部分にもっと多くのページ数を費やしている。
私がセンスを感じたのはこの付近で、愚直に『毒入りチョコレート事件』の形をなぞるのではなく、中核にある部分を取り込んで話を換骨奪胎しようという姿勢が見られる。『毒入りチョコレート事件』では、事件はすでに終わっていて、シェリンガムたち探偵はその証拠物件や証言をかき集めた上で推理をする。『毒入りコーヒー事件』では事件はまだ現在進行中で、大出と小檜山はそこに証拠品の現物や当事者がいる状態で活動することになる。その違いが展開にも活かされているし、もっと大きな違いもある。