寺地はるな『カレーの時間』を書店員・本間悠が読む 「不要」なものをすくい上げる寺地マジックの本領


 私は、片付けが苦手だ。片付けというか家事全般が苦手だけど、中でも特に片付けのできなさには自信がある。もし私が『カレーの時間』の主人公・桐矢と義景のように誰かと同居生活を始めるならば、桐矢の姉・あずきが勤務するクリーンエンジェルKMに掃除を依頼することになるだろう。

 ものの本によると、一般的に片付けができない人は、とにかく家の中に不用品が溢れているのだという。そもそも、不用品であるかどうかを判断することが苦手だ。仕分け能力を育成することがマストである。

 そこでよく効果的と言われるのが「いるもの」「いらないもの」と書かれた大きめの箱を用意し、部屋中のありとあらゆるものをそこに放り込んでゆく方法。考えるのは長くても数秒。現在使っている・使ってないの基準に則って、己が機械にでもなったつもりで仕分けてゆく。「いまは使ってないけれどいつか何かに使えるかも」という希望的観測は、決して持ち込まない。

 現在、人間関係においても、これと同様のことが日々行われているんじゃないかと思う。
私の人生に「いる」か「いらない」か。世の中の潮流に「ふさわしい」か「ふさわしくない」か。SNSの普及により、その傾向はますます加速している。フリックして、タップして、指先一つで仕分けてゆく。

 誰かの紡いだたった140文字が、判断材料になることもある。機械的に、システマチックに。そして多くの場合、その仕分けを見直すような機会は二度とこない。捨てるかどうかの判断ができないから部屋は散らかるというのに、私のTLは、私の部屋よりもよっぽど清潔に、快適に整えられてゆく。

当然、小山田義景(83)は「いらない」ボックス行き。
2、3ページで速攻その箱に叩き込んだ。

“怒っているのではない。ふだんから怒鳴るように喋る人なのだ。”

“むやみにでかい声、がさつな動作、口癖、すべての受け入れ難い要素を持つ祖父”

“「お前ら女は月経があるから機嫌がころころ変わりよる。すぐ感情的になる。おれはもう女と暮らすのはこりごりや」”

 彼と同居することになる孫の桐矢にも、シングルファザーで育て上げた三人の娘たちにも、そして娘たちのそれぞれの子どもたちにも(桐矢を含む)、まるでナメクジのように敬遠されている義景。今までに出会った、目にした、「いやな老年男性」の集合体のような小山田義景(83)像が、脳裏にありありと思い浮かぶ。はい、「いらない」。

 しかし私はその数時間後、「いらない」ボックスから義景をすくい上げ、「いる」ボックスに泣きながら収めていた。それこそが、長い時間をかけて読む小説の面白さだし、寺地はるなさんの描く世界のすごさなのではないかと、私は思っている。

 物語は、孫・桐矢目線で語られる白いスプーンの節と、義景目線の黒いスプーンの節が交互に展開し、現在と過去を行き来しながら彼らの世界と人物を立体的に構成してゆく。
「いやな老年男性」である義景が歩んできた、飢えに苦しんだ戦後から、現在の独居老人に至るまでの道のり。

 誤解のないように説明したいのだが、そこには決して言い訳のように感じられるエピソードはないということ。「Aさんはこういう経験があったから、こんな性格になってしまいました、理解して許してあげましょう」という、わかりやすいストーリーは存在しない。

 とてもフェアに、ある意味仕分けのように機械的にシステマチックに、義景の過去は語られている。(こういうフェアな目線というか、人物に肩入れしすぎない距離感も、寺地さんの語りの魅力の一つだと思う)

 しかしなぜだろう。その道のりを知れば知るほど、私はどんどん義景を許して…いや受け入れてしまうのだ。

 自殺した母、そして育児を放棄した父によって親戚中をたらい回しにされ、いつも飢えていたこと。お見合い結婚をした桐乃となかなか心を通わせられなかったこと。「もう二度と戦争がないように。人々が飢えることがないように」との願いを込めて命名されたピース食品に勤め、当時開発されたばかりのレトルトカレーの普及に尽力したこと。そうした経験を経て徐々に作り上げられていった人格と、時代によって刷り込まれた価値観。たくさんの素材が少しずつ味を出して「カレーの味」を作るように、義景もまた、たくさんの出来事で形成されている。

“人は何歳からでも変われる、なんて言葉をたまに聞くが、ほんとうだろうか。ほんとうなら、祖父にも変わってほしい。(中略)でも祖父には「これまで」がある。八十年以上の「これまで」。”

 わかりやすいストーリーは存在しないと前述したが、同様に、「古い考えをもった人物が時代に合わせて考えを改めることで、周囲に受け入れられる」という、いわゆる勧善懲悪的なストーリーも存在しない。言っておくが、義景は変わらない。これは誰かを断罪し、改心させる物語ではないからだ。みながみな、そのままで存在し続けるのに、刺々しかったやり取りは柔らかく、いつしか丸みを帯びている。煮込まれるごとに角が取れて、口当たりが柔らかく、素材の味の境界線が失われてゆくカレーの具材のように。そうかやっぱり、この物語はカレーそのものなんだ。カレーじゃなきゃダメなんだ!

 私は、「いらない」ボックスに、とんでもないものまで捨ててしまってはいないだろうか。

 誰かの尊厳や、思い出や、目には見えない大切な何かを、ボロボロの古い洋服を「汚いから・もう着られないからいらない」というような感覚で、不要と切り捨ててはいないだろうか。

 寺地さんは、「いらない」ボックスにそっと手を差し入れ、光るなにかをひとつひとつ、丁寧にすくい上げる。直して磨いて、無理に光らせるのではなくて、私が見落とした、見つけられなかった光だ。だから、読むことで自然に世界の明度が上がる。上がってしまう。この瞬間を、いつも魔法のようだと感じる読者が多いから、いつしか「寺地マジック」なんて言葉が生まれるのだろう。その魔法を、ぜひあなたにも体感してほしい。

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