書物という名のウイルス 第13回

フローの時代の似顔絵――多和田葉子『地球にちりばめられて』+村田沙耶香『信仰』評

多和田葉子と村田沙耶香がそれぞれに描いたもの

 以上の多和田的な漂流と鮮やかなコントラストをなしているのが、村田沙耶香の短編小説『信仰』(2022年)である。「子供のころから、「現実」こそが自分たちを幸せにする真実の世界だと思っていた」語り手の私は、商品を買おうとする友人に「原価いくら?」と問い続けて、白けさせるタイプであったが、あるとき浄水器を高額で売りつけるカルトの誘いを受ける。そのカルトがやがて旧知の女性を「教祖」とする「天動説セラピー」に発展したとき、「現実」を絶対的に信仰していた私は、ついに転向を決意する。

私はその目をうっとりと輝かせている人たちを、ずっと「現実」へと勧誘していた。ほとんどそれだけが、私の人生の全てだった。私の「信仰」に、うんざりとした顔をし、時には心から怒り、全ての人が離れていった。私こそが「目覚める」べきなのではないか。斉川さんなら私をみんなの世界へ「連れて行って」くれるのではないか。

 だが「私」は教祖のセミナーに参加するものの、他の参加者とは違って、現実への信仰を手放せない。異なる「信仰」の生み出す狂乱のクライマックスに、読者は思わず吹き出さずにはいられないだろう。村田はすでに『コンビニ人間』でコンビニという教会を信仰する女性を描いていたが、本書では同じテーマが「現実信仰」へとスライドしたのだ。

 『信仰』では「夢」といってもせいぜいカルト商法にすぎず、それに反する「現実」のほうも「原価いくら?」という条件反射的な突っ込みでしかない。「お前には夢がない、夢を見ろ」という陳腐なお説教と「お前は現実を見ていない、現実を見ろ」という退屈なお説教を、文字通りインチキ教祖の「説教」を核にまとめてしまうあたり、頓智が利いていて面白い。夢も現実も今やお粗末さんだが、それでもそれらを一心不乱に「信仰」せずにはいられない――このような状況を突き放しつつ付き合うやり方には、職人芸的なうまさがある。みみっちい状況を誰よりも面白おかしく描ける才能が、村田の本領であり、それが『信仰』では遺憾なく発揮されていた。

 思えば、チープな信仰に吸い寄せられる精神的風土は、パンデミックでいっそう目立つようになったのではないか。ひとは病気になると、ふだんなら見向きもしない怪しげな療法や薬にあっさり騙され、必死に救いを求めようとする。社会を慢性的に発熱させるパンデミックともなれば、擬似宗教のウイルスは集団全体に蔓延してゆくだろう――最近では「メタバース」がそうであるように。信仰に感染しやすくなった2020年代の社会が、本書ではコミカルな風刺画として一筆書きされたのである。

 『地球にちりばめられて』からは多和田葉子の苦闘がうかがえるのに対して、『信仰』からはノリノリの村田沙耶香の姿が浮かんでくる。とはいえ、この二つの小説の「根」は、見た目ほど違っているわけではない。村田は現代人が自ら進んで騙されたがっているさまを巧みに戯画化し、お祭り騒ぎを模倣した。かたや、この空騒ぎの日本を物語の始まる前に沈めてしまったのが『地球にちりばめられて』だが、そうなると言葉の電力を確保するのは容易ではない。日本が強固に信じられていれば、それを打ち消す動機も生まれるが、最初から無に等しい日本がどうなろうと、それはエネルギーには変換されないのだ。

 要するに、両者ともに、世界への「信」を押し流してしまう「フロー」(ボリス・グロイス)の時代の似顔絵を描いたと言えるだろう。村田はその流れの断面を切り出して、一筆書きの軽妙な「ポンチ絵」を仕上げ、多和田は流れそのものを長い絵巻物に写像しようとする。そこからは、信仰が漫画になり、言葉が漂流する時代に、手応えのある表現上のリアリティをいかに確保できるかという問いが浮かんでくる。言うまでもなく、その課題は小説だけのものではない。

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