矢野利裕が語る、文学と芸能の非対称的な関係性 「この人なら許せる、耳を傾けるという関係を作ることがいちばん大事」
リアルサウンドではジャニーズ関連の論考を多く寄稿してきた矢野利裕氏が、『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を刊行した。2014年に「自分ならざる者を精一杯に生きる 町田康論」で第57回群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞した著者による文芸批評であり、町田康、いとうせいこう、西加奈子の作家論3つが収められている。生活者の立場から文学を1つの芸能ととらえ、芸能にまつわる差別や暴力性の問題も論じた内容だ。補論では、東京オリンピック開会式の音楽担当降板に至った小山田圭吾をめぐる騒動もあつかっている。矢野氏に今の文芸批評に対する考えを聞いた。(円堂都司昭/3月31日取材・構成)
読むことも書くことも音楽を聴きながらノっているのと区別ない
――矢野さんは1月10日のnote(https://note.com/yanotoshihiro/n/n8eca50e80a6d)でまだ刊行前だった『今日よりもマシな明日』について「自分のほうから「本にして欲しい」とお願いしました」と書いていましたが、どういう経緯だったんですか。
矢野:雑誌に書いた小説や音楽についての原稿がたまっていたので、町田康論が掲載された「群像」の版元の講談社へ1冊にまとめたいと伝えたんです。最初は、もっと小説とか音楽とかいろいろなジャンルにまたがった九龍ジョーさんの『メモリースティック ボップカルチャーと社会をつなぐやり方』のような雑多なものもいいなと考えていました。それに対し、リニューアル以後の「群像」には批評を盛り上げていきたい考えがあるようで、ただ先方からは短めで200ページくらいの低価格でいきたいといわれました。僕はソフトカバーの本が好きだったので、そうした形もいいなと思って乗った感じ。その時には、作家論3つで400字詰め換算200枚くらいありました。ちょうど作業を進めようとした時期に小山田圭吾をめぐる問題が浮上して、この件について「群像」に書いた原稿も補論として加え、今回の本になりました。
――「群像」掲載の批評でいうと、小川公代さんの『ケアの倫理とエンパワメント』も『今日よりもマシな明日』に近い厚さでソフトカバー。一方、高原到さんの『暴力論』は、ハードカバーでわりと重厚な趣でした。
矢野:そうですね。講談社の批評の路線は両方あるけど、僕は重厚ではないポップ路線に乗ったんだろうと自覚しています。
――結果的に文学の言葉が必要だと同時代の状況を語った補論以外は作家論集となりましたが、とりあげた3人のうち町田康といとうせいこうは音楽活動もしてきましたし、小説と音楽にまたがっていて矢野さんらしい評論集だと思いました。そのうち町田康論は2014年、いとうせいこう論は2019年、西加奈子論と小山田圭吾論は2021年で発表時期が違う。本にするためには、筋を1本通してまとまりをつけなくてはいけない。
矢野:根本的に考えが変わったというわけではないですが、時々で重視したポイントが違ったから、まとまりをつけるために序論を書きました。みうらじゅんに触れるところから書き起こしましたけど、やはりステージに立つということ、小説や評論も文字を舞台にした演芸なんだという見方が各論で共通しているので、序論ではそのことを書きました。自分にとって大事なことは、やはり人は小説や音楽といった表現によって生きていけるということです。どんな立場の人も言葉によって毎日を生かされている。そのことを考えるために演芸という視点がどうしても必要でした。
――矢野さんの過去の著作は、『ジャニーズと日本』(2016年)も『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』(2019年)も年代記(クロニクル)的な書きかたでしたが、今回はそれと違って作家論が並ぶ構成です。
矢野:クロニクル的な書きかたのほうは意識的というか、そういう風に整理しようと意図してやっている感じ。一方、僕は「群像」の評論の新人賞出身ですが、応募する側からすると、柄谷行人を輩出した賞というイメージがはっきりしていた。政治や社会状況と無縁ではいられない私がいて、その私を足元から問い直すという柄谷的な内省や批判のありかたをどのように書くべきか。そういった意識で「群像」に書いてきた。いとうせいこう論は対象作家をどのように書くかという意識が強かったのに対し、町田康論と西加奈子論には彼らを照射しながら自分のことも同時に切っていくかまえがあって、よくも悪くも小林秀雄的でした。それは、小林や柄谷から学んだ文芸批評ありきの書きかたです。一方、『ジャニーズと日本』や『コミックソングがJ-POPを作った』は、もうちょっと趣味性が高くて、自分の問題とは切り離したところから(ジャニーズの場合は若干かかわっていますけど)、しっかり資料的なことも含めて提示していく。そこはアプローチの仕方を使い分ける意識がありました。
――小説について語る時と音楽や芸能について語る時は、最初からかまえが違うんですか。
矢野:心は変わらないですけど、アウトプットの方法を変えている意識はあります。言葉を相手にするのは、自分でもそうしながら言葉を書いているから、その言葉自体が問われているし、対称と自分が循環しているような感じがある。音楽の場合は、もう少し距離をとっている感じ。ただ、僕が好きなのは、思考とかよりも、思わず体が動いちゃうような小説家です。よく話すエピソードですが、同人誌即売会の文学フリマでお客さんと話していた時、「好きな作家は誰ですか」と質問され「町田康が好きです」と答えると「だったら木下古栗さんも好きですよね」、「いや、そうでもないですね」という会話になった。町田康と木下古栗を並列して考えたことすらなかったから新鮮でした。たしかにどちらも文章が饒舌な作家ですが違いはなにかと考えると、町田康がミュージシャンだったからかもしれないですけど、僕のなかの音楽を聴いている部分で読んでいる感覚があります。だから、読むことも書くことも音楽を聴きながらノっているのと区別ないというか。
――音楽でも小説でも、矢野さんが語る時は「身体」がキーワードになる印象があります。
矢野:身体というのも便利なぶん危ういワードだとは自覚していますが、僕自身が落ち着きのない性格で、動いていないとダメというか、パソコンを打っている時も音楽やラジオをかけているし、じっとしていられない。むしろ止まっている状態がすごく嘘くさいと思ってしまいます。だから身体を語るのは、キーワードにしているというのでもなく、当たり前な感じです。音楽にしても歌詞分析とかはちょっとわからないです。物語よりも歌として聴いているからサウンド的な分析ならまだ理解できますけど、詞の意味よりどうパフォーマンスしているかが気になる。そこまで含めて音楽だろうととらえています。同じく小説でも、登場人物が話す時にどんな身振り手振りなのか、それもメッセージの1つに当然入ってきますよねということです。そこでの意味の発生にも注目するから、身体という言葉を使うんでしょう。