書物という名のウイルス

《勢》の時代のアモラルな美学――劉慈欣『三体』三部作評

生まれ変わろうとする中国の「恍惚と不安」

 ところで、『三体』の大きな特徴は、理論物理学者や社会学者、天文学者のような学者たちが物語の鍵を握っていることである。『三体』というタイトルそのものが、物理学の「三体問題」から来ている。さらに、第二部以降の中心人物となる羅輯(ルオ・ジー)は、中国語の「ロジック」と同音である。つまり、『三体』の世界像とは、エリート的な知識人たちのもつ世界像の集積なのである。

 そのため、『三体』はたんなる娯楽小説にとどまらず、世界認識の複合体という性格をもつ。これは中国小説そのものの特徴でもある。『三国志演義』や『水滸伝』のような小説には、政治思想や軍事技術の書物としての一面がある。例えば、『三国志』の諸葛亮が劉備に披露する「天下三分の計」は、それ自体が政治的な均衡理論のプレゼンテーションであった。権謀術数の渦巻く『三体』が雑多な思想書のような性格をもつのは、中国小説の伝統に照らしてもまったく不思議ではない。

 と同時に、そこにはSFの源流を思い起こさせる要素もある。現に『三体』は、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズのようなヨーロッパの総合的知識人の手がけた科学小説――SFというジャンルが確立される以前の、いわばプロトSF――への先祖返りとして読むこともできる。特に、ウェルズの悪夢的世界は、劉慈欣の最大の持ち味である「負の想像力」と符合するところが多い。

 例えば、『三体』第三部では地球が三体人に急襲され、全人類がオーストラリア大陸に収容される場面がある。数十億の人類が強制移住させられた難民となり、食糧の乏しい大地に無慈悲に投げ出される――これは人類ひいては人類史そのものの遺棄であり、数少ない生存者は社会も文化も尊厳も失ったゾンビになり果てることだろう…。人間を人間ならざるものへと思想改造してしまうというモチーフは、文革の場面をはじめ『三体』のあちこちに見られる。

『三体III 死神永生』(早川書房)

 この何とも嫌なシーンは、イギリス人ウェルズの世紀末小説『宇宙戦争』(1898年/原題はThe War of the Worlds)を彷彿とさせる。そこではサディスティックな火星人が圧倒的な科学力によってイギリスを占領し、地球人を捕獲してその血を吸いとるが、それはアジアやアフリカを蹂躙し植民地化した大英帝国のふるまいの鏡像でもある。非西洋人を人間扱いせず、蟻のように踏みつける傲慢な植民地主義者の態度が、今度はイギリス人自身に差し向けられる――研究者はそこに「反転した植民地主義」という、ねじれた構造を認めてきた(丹治愛『ドラキュラの世紀末』参照)。

 周知のように、21世紀の中国はアメリカと並び立つ「超大国」へと邁進する一方、香港や新疆、チベット等への圧力をいっそう強めている。しかし、中国の超大国化を夢見ることは「一歩間違えれば、逆に自らが支配されてしまうのではないか」というヒステリックな恐怖や不安を増大させるだろう。習近平時代の前夜に完結した『三体』には、まさに《反転したチャイニーズ・ドリーム》が刻まれている。ウェルズがダーウィニズムを背骨としながら、大英帝国の不安を悪夢に変えたように、劉慈欣もユーラシアの大国へと生まれ変わろうとする中国の「恍惚と不安」を、苛酷な生存競争の法則に貫かれた悪夢的宇宙へとジャンプさせたのである。

『三体』の世界観の核心

 さらに、『三体』が高度な監視社会のアレゴリーを含むことも見逃せない。三体人は《智子》というミクロのコンピュータを駆使して、地球人の言動を監視し、その計画を筒抜けにしてしまう。その監視の網の目から逃れるために、孤独に戦略を練る羅輯ら四人の《面壁者》も、ホンネを口にすることは許されず、身近な人間すら信用できない状況に陥る。この《智子》のもたらした疑心暗鬼と相互不信に、他人はおろか、友人や家族どうしの監視・密告すら横行した文革時代の暗い記憶が及んでいるのは確かだろう。

 今の中国で監視社会をリアリズム的に描くと、さまざまな軋轢が生じるのは避けられない。といって、SFならば安全というわけでもない。劉慈欣がうまいのは、文明の衝突や監視社会の悪夢を高解像度で描きながら、それが社会批判に直結しないように、バイパスを設けていることである。《面壁者》には監視社会の強いる沈黙や不信が濃縮されているが、同時に彼らは地球防衛のかなめであり、たんなる犠牲者や隷属者というわけではない――このような役割の按排は実に巧妙である。バラク・オバマやザッカーバーグに礼賛される一方、中国で大きなお咎めもなく大々的に出版されるような小説は、後にも先にもほとんどないだろう(※)。

 ともあれ、『三体』では政治家の影が総じて薄い一方、孤独な知識人の姿がたびたび際立たせられる。このような心理的な陰影は、やはり中国の歴史的文脈から考えられねばならない。

 もともと、中国は知的な教養を備え、公的な使命感をもった士大夫が、政治・文化の中枢を占めてきた国である。しかし、20世紀に入って科挙が廃止され、かつての士大夫が「知識分子」へと装いを改めるなか、知識人の威厳は削られてゆく。インテリ嫌いの毛沢東は、文革において紅衛兵を動員し、知識人をもてあそび辱めた。この無惨な出来事は、モラルの崩壊と知識人の象徴的下落を極限まで推し進めることになった。

 文革から始まる『三体』の壮大なストーリーは、知識人の受難がすべての発端にある。このつらい「痛史」を償うかのように、羅輯をはじめ中国人学者たちはたえず知略をめぐらせて三体人を出し抜こうとし、さらには宇宙の「公理」をも理解しようと努めるが、最終的にはその知的努力のすべてを無に帰するようなアモラルな遊びが、星々の大量絶滅をもたらす。世界を理解しようと悪戦苦闘する学者と、それをもてあそぶ子どもじみた戯れ――この構図は『三体』において何度も反復される。

 例えば、三体文明の発した観測機の《水滴》。劉慈欣は《水滴》のフォルムを、厳密に幾何学的なものとして描いた。それは作中でも言及されるように、アーサー・クラーク/スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』のモノリスを思わせる。ただ、モノリスが超然としているのに対して、《水滴》は恐るべき高速で動き回っては、戦艦や都市を一方的に破壊するのだ――まるで子どもの「おはじき」が最悪の兵器として現れたかのように。

 あるいは、太陽系にゴージャスな破滅をもたらす次元削減兵器の《二向箔》(邦訳では《双対箔》)。三次元の宇宙を二次元へと崩落させてゆくシーンには、SF史において稀に見るような、この上なく華麗で奇想天外な想像力が駆使されている。その崇高にして邪悪な「絵画」は「芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」(ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」)というファシズム美学を否応なく想起させるものだ。ただ、この《二向箔》もいわば子どもの「おりがみ」のように他愛のないシンプルな兵器にすぎない。しかし、それこそが太陽系史上空前のジェノサイドをもたらすのである。

 それまで人類が営々と積み重ねてきたものが、子どものおもちゃのような《水滴》や《二向箔》によって瞬時に破壊される――しかも、それは上位の文明からすれば、ほとんど鼻歌まじりになされる程度のことにすぎない。ここにはimmoral(=道徳に反する)という以上にamoral(=道徳と関連しない)な残酷さがある。地球人にとっての大惨事は、モラルなきダークな宇宙ではとるにたらない些末な現象にすぎない。

 こうして、地球上の事件が目もくらむほどのゴージャスな破局にまでエスカレートする一方、その宇宙規模の破局が子どもじみた遊びに対応づけられる――このめまぐるしい《美学的転調》こそが『三体』の世界観の核心にある。劉慈欣は最悪の地獄こそをもっとも崇高に演出し、おぞましい大量絶滅のトリガーこそをもっとも無造作に引いてみせる。これは下手をすれば、小説の最低限の倫理をも踏みぬいてしまうものだが、そこに《勢》の時代のアモラルな美学が樹立されていることも確かである。

(※)ノーベル文学賞候補にもあげられる1958年生まれの閻連科が、反体制的な作家であり、その多くの著作が発禁処分を受けているのに対して、劉慈欣はそのような危うい橋を渡らない。それゆえ、欧米のメディアはときに、彼を体制に迎合的な作家として批判した。もとより、中国の作家を安全地帯から批判するのはいかがなものかと思うが、ただ、中国のSFが今後「国策」として利用されることは大いにあり得る。SFだからといって、政治的に中立ということにならないのは、改めて肝に銘じておくべきだろう。

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