『風の谷のナウシカ』に表れる宮崎駿の“矛盾”とは? 『ミヤザキワールド』と『ナウシカ考』、2冊の書籍から考察

文明へのアンビバレントな態度

「僕は、海面が上昇して東京が水没し、日本テレビタワーが孤島のように浮かぶ姿を見てみたいのです」

 まるで『天気の子』の終盤のような光景だが、これは新海誠監督の発言ではない。ネイピア氏によれば、これは宮崎氏が2005年にニューヨーカー『The Auteur of Anime』の記事にて語った言葉だそうだ(『ミヤザキワールド』、P37)。この発言の後、宮崎氏が作ったのは大洪水によって町が水没する映画『崖の上のポニョ』だった。

 宮崎駿は明らかに文明に対する懐疑的な感情を抱いている。懐疑的というより、文明の破壊願望と言うべきかもしれない。漫画版『風の谷のナウシカ』におけるナウシカの最後の敵は、旧人類が生み出した、生態系全てを作り変えコントロールできるハイパーテクノロジーである。それは腐海の毒に苦しむ人類を救う唯一の希望であるが、それをナウシカ自身が意思を持って叩き壊すという衝撃的な結末は、並の文明批判とは次元が異なる。

 「多すぎる火は何も生みやせん」という台詞が映画版『風の谷のナウシカ』にあるが、多すぎる火とは強大な軍事力であり、巨大な産業のことである。映画版においては「そりゃワシらもちょびっとは使うがの」という台詞とともに前述の台詞が語られるあたり、映画版当時は適度に火をコントロールし、自然と調和可能な文明のあり方を称揚していたのかもしれない。

 赤坂は、宮崎氏のとあるインタビュー「産業革命や、ハイテクを使うようになったからということ以前に、もう農耕を始めたり、プロメテウスの火をもらった時から、どうもこの生き物は業を背負っている」という発言を紹介し、人間のあり方そのものに、同氏が「原罪」のようなものを感じ取っていることを示唆している(『ナウシカ考』、P131)。

 しかしながら、漫画版『風の谷のナウシカ』という作品のユニークさは、その忌むべき火の中でも最も強力なもの、巨神兵の火をナウシカ自身が使うことだ。業を持って業を制するというか、この態度にはどこまでも人間的な矛盾が潜んでいる。そのナウシカの態度を、クライマックスをともにするクシャナの父、ヴ王が「破壊と慈悲の混沌」と表現しているが、大変に的確な表現ではないか。

 このアンビバレントさこそ宮崎氏の最大の魅力だろう。ネイピア氏は「ミヤザキワールドの複雑な側面は、相互に矛盾している場合もあるが、どんな時も観る者を魅了せずにはおかない(『ミヤザキワールド』、P46)」と語る。戦争を憎みながらも兵器や戦闘機を偏愛する矛盾はつとに指摘される点だ。西洋への憧れと失望が混在し、母への愛着と確執が混ざり合う。壮大なヒューマニズムを展開しながら、人間文明を破壊したがる。「破壊と慈悲の混沌」とは宮崎氏自身のことではないか。『ナウシカ考』と『ミヤザキワールド』の2冊の本は、そんなあまりにも入り組みすぎて迷子になりそうな宮崎氏の混沌として世界の魅力を、読者に改めて気づかせてくれる優れた案内書だ。

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

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