又吉直樹『人間』が描く、夢を諦めた先の物語 世界をきちんと見つめようとする男たちの生きづらさ

 我々は自意識の塊でできたゾンビだ。「自分がゾンビであることに気づいていないゾンビ自身が、なんの罪もない彼女の真白い首元に噛みつき無残にもゾンビにしておきながら、そのゾンビ化した彼女に自分が噛まれると、大声あげて泣き叫ぶなどというのは、それこそ馬鹿の極み」(又吉直樹『人間』p.110)という言葉は又吉作品に登場する女性像の純粋無垢でありながら娼婦にもなる「与えすぎる」女の悲劇性を物語っていると同時に、ゾンビは主人公だけではないと感じた。

 この物語の登場人物は皆一様にちょっとおかしい。主人公は、もはや実体を持っているのかさえ怪しい、自在に姿形を変化させ彼の求める存あ在に成り代わる「カスミ=霞」という幻のような女性と共に時を過ごしている。彼女は「研究者たちは見ようとしていないから見えていないけれど、実際にはちゃんと存在していたブータンシボリアゲハ」のような存在らしい。それぞれが「自分が見えている世界が正しい」と信じ込んでいるが、その世界があまりにも乖離していて、何が正しいのか読者にもわからないまま、彼らは互いを罵倒し合っている。主人公・永山と、芸人であり文学賞を受賞した作家であるポーズの影島道生という著者・又吉直樹の分身とも言える2人がバーに集まって、「感覚を言語化してしまったがために、宇宙に触れることができなくなってしまった」と嘆く。

 「俺の人生、そういう自作自演を繰り返しているんちゃうか」(p.226)と呟く永山の感覚には、かつての古傷を触るような、共感せずにはいられない懐かしさがあった。それに気づかずに鈍感に生きていける人こそ幸せで、ふと自分を客観視してしまって我に帰り、それがずっと38歳になるまで続いている彼らは、本当に「人間をやるのが下手」な人種なのだと思う。

 毎日新聞の連載小説であり、三作目にして又吉直樹初の長編小説『人間』。これは、SNSが普及し、誰しも表現活動ができるようになった現代だからこそ誰もが共感せずにはいられない物語だ。一度「何者かになる」「表現者になる」という夢を抱いた若者たちは、夢を諦め、恋に破れ地獄を見ようとも、夢の世界の片隅で、ただの「傍観者」になりきれないまま燃え続ける火の只中にいて、人に謗られ笑われようとも何かを表現し続けようとせずにはいられない。つまりは一度死んだゾンビである。それが漫画家になりたいという夢を諦め、「まだ絵は描いていて、いつからか粗末な文章も書くようになった」38歳の主人公・永山の姿であり、成功したように見せて破綻していく影島もまたそうであり、永山や影島が「絶望的につまらない」と切り捨てる「平凡」を武器にして正論を振りかざすイラストレーターでコラムニストのナカノタイチの姿でもある。そして「表現」がいつでもどこでも簡単にできるようになってしまった現代のネット社会において、そんな地獄の火は、至る所で燃え、燻っている。

自分の前世が幼い頃の母の網膜だったなら。母が見た景色を自分も生まれるまえから見ていたとしたら、僕が母の網膜の生まれ変わりなら、僕が見るということは母が見ているということになる。(p.364)

 『人間』の終盤の一節である。一方、デビュー小説にして芥川賞受賞作である『火花』執筆より先に着手しつつ、完成は『火花』発表の数年後になった、又吉の小説の原点とも言える『劇場』の冒頭はこう始まる。

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