LE SSERAFIM、SuperM、BE:FIRSTら手掛けるALYSA、世界を舞台にしたクリエイティブ 新レーベルで目指すもの

インターネット時代に入り、国の垣根を越えた交流やビジネスが急増して久しいが、音楽の世界も例外ではない。クラシックを出発点としてフラットな視点で幅広いジャンルを吸収してきた音楽プロデューサー・ALYSAは、その豊富な知識と音の引き出しの多さを持ち味に、主に日本や韓国、中国を舞台に多彩なサウンドを手掛けてきた。アーティストの個性を引き立てるサウンドメイクに定評があり、これまでにLE SSERAFIMやBE:FIRST、ENHYPEN、NiziU、SixTONESといったビッグネームたちとタッグを組み、生み出したヒットソングは数知れない。すでに独自のポジションを築いた感のある彼女だが、このたび自らがヘッドプロデューサーに就任して「O21(オートゥワン)」というレーベルを立ち上げる。目指したいものは何なのか、どのような方向性で進んでいくのか——。様々な問いに対して、ALYSAはよどみのない口調で誠実に答えてくれた。(まつもとたくお)
一度就職を経てカナダへ留学、デモを送付し続けることに

——どのような経緯でプロの道に進んだのでしょうか?
ALYSA:親がピアノの先生だったということもあって、結構早い段階から音楽に接していたんです。3歳でピアノを習い始めて、作曲の勉強も5歳から。音楽大学にもちゃんと行かせてもらって……。それでも音楽で食べていくのが相当難しいと感じていたので、卒業後はエンタメ系の企業に就職したんです。
——確かに音楽ですぐに生活できる人はそれほど多くないですよね。
ALYSA:でもいざ就職してみると、自分の人生において何か大切なものを手放してしまったという後悔が強くなってきたんです。「これは最大の失敗だった」「やってはいけなかった」と。それで3年で退職しました。
——それでも3年はしっかり仕事をされていたんですね。
ALYSA:はい。とりあえず海外へは留学しようと思っていました。
——留学先はカナダのHarris Institute For The Artsですが、選んだ理由は何ですか?
ALYSA:ヨーロッパへ行くとクラシックの要素が強くなるかなと思ったこともあり、北米かなと思っていたんですけれども、私が行こうと思っていた時期はアメリカドルが高かったし、学費も高い。一方でカナダはマネジメントとプロダクションの両方を学べることが魅力的でした。実際に通学してみたら、「俺は将来プロデューサーになる」「この世界で食べていける」って自信を持っているようなポジティブな雰囲気というか、そんな文化の違いも私にとっては良い刺激になりましたね。
——この大学を首席で卒業されたわけですが、それから音楽プロデューサーのキャリアが始まっていくわけですね。
ALYSA:学校では真面目に勉強しましたが、プロになるために必要なのはそれだけではありませんでした。いちばん大切なのはどれだけコネクションができるかということ。私の場合はInstagramやFacebook経由で音楽関係者にDMを送り続けました。営業といえば、それのみですね。しかも日本の方面はまったく知らなかったので、DMを送ったのはカナダやアメリカの人たちばかりでした。
ガムシャラにデモを送り、K-POP市場で名前が広がっていくまで
——確かに最近の若手アーティストはそのパターンで人脈を作っているような気がします。
ALYSA:それでも99%くらいの人は反応してくれません。「とりあえずデモを送って」と返信があったとしても、デモを受け取った人の中からさらに連絡があるのは、ごくわずかでした。そのわずかな人とのやりとりを大切にしながらプロへの道を切り開いた感じでしたね。とにかく本当にラッキーだったと思います。

——ALYSAさんは音の引き出しが多い作家だと思います。真面目に根気強く曲作りをしてきたことも強みになっているのではないでしょうか。
ALYSA:ソングライティングに関しては、1日4曲のペースで作っていた時期もあります。特にK-POPシーンでは、「受け取ったデモをそのまま明日リリースするよ」と言われても問題ないほどのクオリティじゃないと受け付けてもらえないんです。だからまずはそのレベルまで実力を引き上げるのが、自分の中での戦いでした。世界各地から集まった何千曲のうち、たった1曲が選ばれるわけですから、本当に厳しい世界です。その先も相手のニーズにすぐに応えられるものがないと続けられませんし。
——単に良い作品を生み出せれば選ばれるというわけではないのですね。
ALYSA:はい。数多くの選考を経て、そのあたりの姿勢・精神力は鍛えられたと思います。
——プレゼンを何度もして、最初に結果に結びついたのはどれぐらい経ってからだったのですか?
ALYSA:将来への不安を抱えながらも、1日で4曲寝る間も惜しんで楽曲を作り、1年ほど必死でプレゼンをした結果、日本から初めて採用の連絡がありました。
—— 決まったときはやはり嬉しかったですか?
ALYSA:とても嬉しかったし、泣きもしました。自分でようやくお金を稼げる喜びもありましたし。
——それでもプレゼンの日々は続いたんですよね。
ALYSA:はい。毎日がプレゼンでした。その1曲が決まったからといって大きく変わりはしませんでしたね。ひたすら曲を書き続けるのは今でも同じです。
SuperM「So Long」(2020年)が一つの転換期に
——作家としての手応えを感じた時期はいつだったのでしょうか?
ALYSA:デモが業界内で回っていくには、ある程度時間を要すると感じています。そして自分のクレジット入りの曲があちこちで聴かれるようになると、「この名前、最近よく見るな」という感じで少しずつ知名度が上がっていきました。そうこうしていくうちに採用される頻度が増えていった感じですね。特に韓国へ行くとよく言われるんですよ。「あなたの名前、いろんなデモで見かけるけど、一体どれほどたくさんの曲を書いているの?」って。そうして業界の中で「この人の書く曲、なんかいいんじゃない」と口コミが広まり、無我夢中で仕事をしていたら、結果的に今のポジションにいたような気がします。
——K-POPで最初に採用されたのは?
ALYSA:日本でリリースされたものだと、おそらく、NICHKHUN (From 2PM)の「Story of... (Japanese ver.)」(2019年)が最初でした。韓国市場だとGFRIENDの「Eye of the storm」(2020年)ですね。
——もう5年前なんですよね。
ALYSA:驚きました。こんなに時が経つのが早いなんて!
——今までの創作活動の中で特に思い出深い楽曲はありますか?
ALYSA:SuperMの「So Long」(2020年)は、私の中では大きかったですね。同曲を収めたアルバムがアメリカ・ビルボードのメインチャートに入ったということよりも、「K-POPってここまで自由度が高いんだ」と思ったのが貴重でした。この曲をきっかけに「私は今、K-POPに近い立場にいるけど、日本は今どうなってるいのかな?」と興味を持ち始めたんです。それが自分の人生の大きな転機にもなりました。


















