むぎ(猫)、変わりゆく日常を満喫する軽やかなポップソング 人間の心に与えられる“猫だからこその安心感”
むぎ(猫)の存在を知ったのは2016年の初秋だったと思う。「自作の歌を歌う大きな猫がいる」「その猫は一度死んでしまったのだけど、飼い主の男性が手作りで新しい身体を与えた」とどこからか伝え聞いた。「逸材現る!」と喜び勇んで下北沢のライブハウスに足を運んだのは11月。そこには木琴をあざやかに叩き、斜め掛けをしたバッグから小道具を出しながら歌って踊る猫がいた。入手したCDではちょっとブラックなユーモアと大切な真理が猫の言葉で歌われていた。
ジョン・レノンやフレディ・マーキュリーを例に挙げるまでもなく、猫が好きなミュージシャンは多い。遠藤賢司は「創造力をくれるねぇ。猫はかっこいいからね」と言い、幼い頃から飼ってきた猫の中でいちばん好きだったアビシニアンのアルファルファが死んでしまったときは1年間泣き暮らしたと述懐した(※1)。出会ってきた猫の話をするときは、楽しそうに鳴き真似、顔真似をしてくれた。仲井戸麗市は猫を見ていると「人生悩んでても仕方ねぇや」と思えると言う。そして「猫は用事がない。用事がないっていいなぁ」と羨む(※2)。杉真理は猫の歌を何曲も作っている。
猫はその姿でそこにいるだけで完璧だ。人生の希望だし、日々の糧になる。少し陽に透ける耳。陶器のような爪。それを収納する指。胸の毛は歳をとるごとに量が増えて風にそよぎ、後頭部はいい匂いがする。両手を揃えて座る姿は美術品のようだし、変な形で寝くずれている様子はいつまでも眺めていられる。ごろごろと鳴る喉は素晴らしい楽器だ。
そして猫はとても賢い。人の話を聞かないふりをしながらちゃんと聞いているし、いろいろなことを覚えている。複数の人間たちの関係性を理解し、ごはんは誰に催促するのが最適か、ハードな遊びに付き合ってくれるのは誰か、きちんと把握している。人の目をまっすぐ見て、鼻にキスをしてくれる。猫がいれば毎日が豊かに色づき、笑いが絶えない。
でもそれはやがて終わりが来る。
猫を失うと、猫の形の穴があく。心の中に。部屋の中に。あの子がもういない、そう知った瞬間何かがえぐり取られる。愛用の爪とぎやトイレを片づけると、その小さなスペースの広さにたじろいでしまう。家具を動かすと抜け毛がふわっと宙を舞い、そこから動けなくなる。湧き出てくる涙の量は日を追うごとに増え、決して枯れることはない。頭の形を、背中の曲がり方を、お腹のたるみを、手のひらが覚えている。あの重さをもう一度味わいたい。もう一度会いたい。
猫の形をした穴は、猫にしか埋められない。喪失は再生を必要とする。むぎ(猫)は地上に戻ってくるまでに5年を要したという。インディーズ時代の名盤『天国かもしれない』に収められている「天国帰り」を泣かずに聴くことはできない。私の猫はいつ帰ってきてくれるのだろう。