ラストツアー開催中のKISS、いかにして“伝説のライブバンド”になったのか 伝記映画公開決定を機に初期のキャリアを振り返る

 今年の12月2日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでキャリア最後のライブを行うKISS。2024年にNetflixで伝記映画が公開されることも話題になっており、KISSの初期の活動とポール・スタンレー(Vo/Gt)とジーン・シモンズ(Vo/Ba)にフォーカスすると報じられている。

 『コン・ティキ』『マレフィセント2』『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』などを手掛けたヨアヒム・ローニングが監督を務め、脚本はウィリアム・ブレイク・ヘロンによる初稿を基にオーレ・サンダースが執筆する。ポール・スタンレーは脚本について「とても良かったよ。ちゃんと心地よく感じるまで待ったし、一回しかチャンスがないから、中途半端で下手な形でやりたくなかった」と明かしている(※1)。キャストはまだ決まっていないが、ポール・スタンレーがキャスティングにも携わるようだ。KISSの初期の活動を描く伝記映画の発表を記念して、伝説のライブバンドとしてKISSがいかに始まったかということをおさらいしたい。

 ポール・スタンレーとジーン・シモンズは、KISSを立ち上げる以前、Wicked Lesterというバンドに所属していた。Epic RecordsからリリースするためにアルバムをレコーディングしたWicked Lesterであったが、レーベルがアルバムをリリースすることを拒否したため、2人は今後の活動に困っていた。再始動するために他のメンバーを解雇しようとしたところ、メンバーが辞めなかったため、ポール・スタンレーとジーン・シモンズは自らバンドを去り、新しいバンドを作ることにしたと、KISSの公式ウェブサイトの「KISSTORY」に記載されている(※2)。

ジーン・シモンズ、ポール・スタンレー(『The End Of The Road' Tour』)

 Wicked Lesterを辞めたポール・スタンレーとジーン・シモンズは、ピーター・クリス(Dr)とエース・フレーリー(Gt)を起用し、「今までにステージで見たことがないバンドをやる」という目標の元、KISSを結成した。当時のマネージャーはKISSの音楽を「今まで聴いたなかで最もクソな音楽」と言い放ち、結成してまもなく辞めたようだ。マネージャーを失ったKISSは、ジーン・シモンズ自らがライブハウスに電話営業をし、150ドルのギャラで3日間ライブをするという仕事を確保したのだ(※3)。

 50年前の1973年1月30日にニューヨークのPopcorn Club(現:Coventry)で行われた初ライブには数人しか訪れなかったようだ。ジーン・シモンズは自伝『Kiss and Make-Up』で「観客はたぶん3人ぐらいだった。ピーターの妻リディアと、私が当時付き合っていたジャンという女性と、彼女の友達ぐらいだったかな」と記載している。エース・フレーリーの自伝『No Regrets』では、「フロアには知り合いしかいなかった。メンバーの家族と彼女ぐらいだった。他のバンドだったら恥ずかしくて辞めていたかもしれないけど、私たちは少しも怯まなかった」と記載されている(※4)。

 ドラマーのピーター・クリスは「私たちは当時からまるで会場が満員であるかのように全力でライブをしていた。初ライブが終わって、このバンドが運命のバンドであることに気がついた。メンバーを誇りに思った。4人ぐらいの観客に対して、人生の全てをぶつけるように、汗を流しながらパフォーマンスをした」と、KISSが成功をすることを確信したと明かしている(※5)。

KISS(『The End Of The Road' Tour』)

 他のメンバーが初ライブに満足しているなか、人一倍プロ意識を持っていたポール・スタンレーは不満に感じていたようだ。他のメンバーがMCで友人や家族に感謝を述べたことがプロフェッショナルらしくないと感じていたようで、「大きなリーグで活躍するバンドらしくないし、私が投影したいビッグなイメージからかけ離れたものだった」とコメントしている。ポール・スタンレーは、メンバーに「小さいバンドのままでよければ、MCで友人の名前を呼べ。大きなステージで活躍するバンドになりたいのであれば、そういう印象を残さないといけない。観客が少なくても、マディソン・スクエア・ガーデンでライブをしているように振る舞わないといけない」と伝えたようだ(※6)。その4年後、KISSは実際にマディソン・スクエア・ガーデンでライブを開催している。

Kiss - Detroit Rock City (From "Kiss Rocks Vegas")

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