シド、20年を語り尽くす 結成秘話から雨の横浜スタジアム公演、アルバム『海辺』まで……挑戦し続ける音楽への姿勢

 結成20周年を記念し、シドが『SID 20th Anniversary BOX』をリリースした。同作にはこれまで発表したオリジナルアルバムに加え、シングル表題曲を収録した『Side A complete collection』及びカップリング曲を集めた『Side B complete collection~e.B 4~/~e.B 5~』をコンパイル。また、全40曲のMVを収録したBlu-rayや歌詞大全集なども付属する大ボリュームのアニバーサリーボックスに。発売を記念し、メンバー4人に改めて結成からの20年について率直な想いを聞いた。結成当時の秘話や、武道館、東京ドーム、横浜スタジアムといった大規模な公演、そしてバンドの今後まで、4人にとっての“シド”という存在の重要性が伝わる取材となった。(編集部)

全員が“このバンドが最後”と始めたのがシドだった

――まずは20周年おめでとうございます。

一同:ありがとうございます。

――この20年間でさまざまな出来事があったと思うのですが、振り返ってみていかがですか?

Shinji:20年もバンドを続けるのはなかなか難しいことで、もちろん大変なこともたくさんありましたけど、そういうことの積み重ねがあったからこそより一層音楽を楽しめています。20年間で今が一番楽しいと思えていますね。

ゆうや:こういう周年の機会は特に、誰もメンバーが変わらずにずっとこの4人で20年間バンドを続けるっていうのは改めてすごいことなんだと実感します。でも、僕らからするとずっと同じ職業ではあるものの、常にチャレンジしながら進んできたので、あっという間の20年でした。

――20年というと、皆さんの人生の中でもかなりの割合を占めますもんね。

明希:今の自分に一番影響を及ぼしている部分だから切り離しては考えられないですよね。ただ逆を言えば、良いとか悪いとかではなく、自分のやってきた道というだけとも言えるかもしれないです。

――やはり、楽しかったことや嬉しかったことばかりではなかったと思います。

マオ

マオ:もちろん辛かったことや大変だったこともその時々であるんですけど、意外とそういうものって記憶から薄れていくんです。黒かったものが時間を経て白くなっていくイメージというか。それって、その時を全力でやっているかどうかだと思うんですよね。全力でやった結果、つまずいて辛い思いをしたとしても、後から振り返った時に「でも、全力でやったよね」って思えるかどうかが大切だと思っていて。だからこそ20年間全力でやってこれたこのバンドは素晴らしいと自分たちを褒めてあげたいですね。

――では、シドの20年間を振り返りながらお話を伺おうと思います。シドが結成された2003年は90年代のヴィジュアル系ブームも落ち着き、世間的なジャンルの見方としては下火だった一方で、インディーズシーンでは多様性に溢れたバンドが数多く生まれた面白い時代だったかと思います。当時の音楽シーンをどのように見て、シドを結成されたのでしょう?

明希:今思うと、あぁだったな、こうだったな、と思うこともあるんですけど、あの当時はシーンがどうとか、廃れている/廃れていないというより、単純にヴィジュアル系が好きだっただけなんですよね。その中で新しいことをしようっていう気持ちも持ちつつ、自分の持つ好きなものへの憧れに向かって夢中になっていた覚えがあります。なので、トレンドとかもわかってなくて、逆にマオくんに教えてもらっていましたね(笑)。

――その中でシドは“歌謡曲”に目をつけたわけですが、明希さんの発言から察するとこれはマオさんの提案ということでしょうか?

マオ:そうですね。歌謡曲に目を向けた理由は4人とも歌謡曲が好きだったからというところが大きかったです。好きなものをやったほうがいいと思うし、好きな音楽と好きなシーンを組み合わせて生まれたのが結成当初の音楽性なんです。

――意外にも「好き」というシンプルな理由だったんですね。

マオ:もちろん音楽性や戦略など細かい要素が絡み合ったからこそ上手くいった部分もたくさんあります。だけど、シドが上手く転がりだした一番の要因はメンバー全員が本気だったからだと思います。というのも、メンバー全員少なからずキャリアがあって年齢的な制限も感じていた中での結成でもあったので、全員が“このバンドが最後”って始めたのがシドなんですね。だから本気度が違う。なので、結成1年くらいでこの4人の本気って本当に強いんだなとひしひしと感じたのをよく覚えてますね。

――ちょうどその結成1年を迎える頃にリリースした『会場盤』(2004年)は即完。完売を受け問い合わせが殺到し、シドの名前は音楽シーンに知れ渡ることとなりましたね。

ゆうや:すごくびっくりしました。それぞれがいろいろなキャリアでやってきて、なかなか上手くいかない中で始めたバンドだったし、結成してわりとすぐに注目されたので驚きましたね。何がどうなってこうなったのかという方程式も全くわからなくて、横並びでやっていた周りのバンドマンからは「どうやったの!?」みたいに聞かれることが多かったです。

――そして、今でもヴィジュアル系の歴史に残る名盤とも言われる『憐哀-レンアイ-』(2004年)のリリースでさらに“シド=哀愁歌謡”のイメージを定着させることとなりますが、翌年リリースの『paint pops』(2005年)や『星の都』(2005年)ではポップスの要素が増え、音楽性に広がりが出たと思います。この変化に驚いた記憶があるのですが、音楽性の変化の理由や哀愁歌謡の路線を踏襲しなかった意図はあったのでしょうか?

マオ:当時僕たちがやりたい音楽がああいう音楽で、言うなれば僕たちの中での“旬”だったというのが大きかったですね。

Shinji:この頃って今よりももっとライトに新曲をメンバーに聴かせていたんですよね。その中で「これいいじゃん! やろうよ!」みたいなノリで曲出しをしていて、その中から選ばれた曲なので、ガラッと音楽性を変えて勝負するぞ! みたいな感じではなく、その時やりたいことをやっただけでしたね。

――音楽性が大きく変化すると、どうしても否定的な意見も出てくるかと思いますが……。

Shinji:もちろん歌謡曲は好きですけど、歌謡曲だけが好きなわけでもないし、いいものはいいというスタンスなので、“変わろうぜ!”と意気込んだりはなかったです。

マオ:でも、当時「シド、変わっちゃった」って声もたくさん届きました。でも、そういった賛否両論があったことに関しては「盛り上がってきたな!」と思っていたし、人はこうやって人気者になっていくのかなという気はしてました。

――事実、シドの名前はさらに広がり、結成3年で日本武道館ワンマンというトピックは当時の勢いを物語っているかと思います。

ゆうや:いかんせん武道館に至るまでの速度が早すぎたので、めちゃくちゃ緊張したし、右も左もわからない状態での初武道館でした。とはいえ、当時から事務所に入っていて、事務所の大人たちは他のアーティストで武道館であったり、もっと大きな会場の景色を見ている人ばかりでもあるので、その人たちのアドバイスを聞きながら迎えた武道館ワンマンでしたね。あとは肩書きが一つ増えて鼻が高かったですね(笑)。

――ミュージシャンが武道館でワンマンをやるのは成功の証みたいなところもありますからね。

マオ:僕も当時やたら地元の友達に電話して、さりげなく自慢も織り込みながら喜びを噛み締めてました(笑)。

――それだけ日本武道館という場所は特別な場所なんでしょうね。

Shinji:母が初めて僕のライブを観にきたのも初武道館公演でしたね。うちの母は演歌しか聴かないような人なので、それまでは「いつまでバンドなんてやっているの?」としか言われなかったんです。初めての武道館公演は、母が重い腰を上げて初めて観にきてくれた思い出深い日でもありますね。

――続いて3枚目のアルバムとなる『play』(2006年)をリリースします。個人的にはこのアルバムでさらに音楽的な自由度が増し、その楽曲のバリエーションの豊かさやさまざまなジャンルを取り込む姿勢がより顕著になった作品でもあると思っていて、改めて振り返ると現在のシドのスタイルの原点のようにも感じます。明希さんはコンポーザーとして意識の変化などはあったのでしょうか?

明希

明希:今だったら“こういう音楽を作らなきゃ”という気持ちもありながら制作する面もあるんですけど、この時期はそういう考えもなく、あまりジャンルにとらわれずに作っていた記憶がありますね。

――自由な発想で曲を作っていたことが『play』の幅の広さに繋がっているんですね。

明希:当時は“何をやってもシドになるんじゃない?”くらいに思っていました。

――ある意味、その自由さをもって『play』を作ったことで枠組みが広がり、シドのジャンルにとらわれない姿勢の土台が出来上がったのかもしれないですね。

明希:そうですね。僕たちってヴィジュアル系のシーンにいながら結成当初からいわゆるヴィジュアル系っぽい楽曲ってなくて。全然違うことをやってきたからこその究極がこのアルバムだと思います。なんせアレンジの音も積みが多いですから。ピアノもアコギもストリングスも入れて、自分のやりたい音像をひたすら追い求めていた感じですね。

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