小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード14 YMO 村井邦彦・吉田俊宏 作
YMO#3
キャンティの前に白い外車が停まった。ポルシェ911だ。川添さんとタンタンが出てきた。
「お帰り。ずいぶん遅かったね。仲小路さんのお宅に行っていたんでしょう?」
象ちゃんが言った。
「ああ、山中湖から真っすぐ戻るつもりだったんだが、ちょっと熱海に寄り道をしてきてね。しかし、このポルシェはよく走ってくれるよ。東京まではあっと言う間だった。やあ、村井君、少し重いんだが、これを店に運んでくれないか。10月に地球文化研究所から出る仲小路さんの新刊だ。とりあえず5冊持ってきた。君に1冊あげるよ」
川添さんが言った。
「は、はい。ありがとうございます。『未来学原論』。ついに完成したのですね。いつだったか、山中湖に連れていってもらったとき、書斎のデスクにゲラが山積みになっているのを見ました」
僕は本を胸に抱えながら言った。
「仲小路さんのために地球文化研究所を設立してから、ちょうど10年になるな。あの人の集大成ともいえる大著だよ。ああ、さすがに腹がへったな。村井君も一緒にどうだい」
キャンティの店内では岡本太郎さんと坂倉準三さんがテーブルで話し込んでいた。川添さんの盟友井上清一さんや作曲家の黛敏郎さん、建築家の村田豊さんもいる。
「やあ、シロー。遅かったなあ。さっき村田君から富士グループの案を見せてもらったよ。こりゃ、とんでもないパビリオンだな」
川添さんの姿を見て、すかさず岡本さんが言った。彼は1年半後に迫った「エキスポ’70」こと、大阪万博のテーマプロデューサーに選ばれ、メインゲートの正面に巨大な像「太陽の塔」を建てると発表している。
「天下のタロー先生から『とんでもない』なんて言ってもらえて光栄だな。会場のいちばん目立つ場所にあんな土偶のオバケを突き立てようとしているタローの方がよっぽどとんでもないけどね」
富士グループの総合プロデューサーを任された川添さんは、キャンティの常連でもある村田さんのアイデアによる前例のないエア・チューブ構造のパビリオンを構想していた。キャンティをオープンする際には、内装の設計も村田さんに任せている。よほど厚い信頼を寄せているのだろう。
「ねえ、村田君。エア・チューブ構造を素人にも分かるように説明してよ。模型の写真を見たけど、巨大な幌馬車か、モスラの幼虫にしか見えないんだよ」
ル・コルビュジエ門下で村田さんの先輩に当たる坂倉さんが言うと、みんなが笑った。
「直径4メートル、長さ78メートルのチューブを16本つなげ、内部に空気を送り込む。それでドーム状の空間、いわばエアドームができるわけです。空気膜構造と呼んでいます。鉄骨やコンクリート、木材などは一切使っていないのに、ドームの中には10階建てのビルがすっぽり入るんですよ。しかも秒速60メートルの台風が来たってびくともしません」
村田さんが解説すると、みんなが口々に「ほお」「すごいね」と感嘆の声を漏らした。
「もっと巨大なエアドームを造って、その中にすっぽりと野球場を入れれば、台風が来ても試合ができるって寸法かい?」
坂倉さんが冗談めかして言うと、村田さんはあっさりと「そうです。その通り。いずれエアドーム球場ができるでしょう」と答えた。
全員が「いやあ、まいったね」とうなった。
「ドームの内部を映画のスクリーンに見立てて、映像を投影するつもりなんだ。音楽は黛君に頼んでいる」
川添さんはそう言って、隣のテーブルにいる黛さんを見た。
「もうほとんどできていますよ」
黛さんは自信たっぷりに応えた。
「やはり電子音楽ですか?」
僕はそれまで黙って聞いていたが、じっとしていられなくなって黛さんに質問した。
「その通り。富士グループ・パビリオンのテーマは『21世紀へのメッセージ』だからね。電子音楽がふさわしい」
川添さんはブランケット・ド・ヴォー(仔牛のクリーム煮込み)に舌鼓を打っている。フランスの家庭料理なのにキャンティのメニューに載せたのは、個人的な好みを反映させたのだろう。
キャンティの名物シェフ、佐藤益夫さんは在日フランス大使館やイタリア大使館で調理人を務めたベテランで、川添さんがスカウトした。佐藤さんをはじめ、キャンティのコックたちにイタリア料理を教えたのはタンタンだった。
そのタンタンの前にフィレステーキが運ばれてきた。彼女は一度凝り始めるとずっと同じものを食べ続ける癖があった。一時期はキャビアばかりだった。この頃は食事のたびにステーキ、ステーキと呪文のように繰り返していた。
「そういえばサカのやっている電力館のテーマは何だったかな」
井上さんが訊いた。坂倉さんは電気事業連合会のパビリオン「電力館」を設計している。
「人類とエネルギー。高さ40メートルの鉄柱を4本立てて、本館を宙吊りにするんだ。ちょっとやりすぎかもしれんなあ。イノに手伝ってもらった日本館が懐かしいよ」
坂倉さんがスパゲティー・バジリコをほお張りながら応えた。
「サカがグランプリを獲った1937年のパリ万博か。ああ、本当に懐かしいねえ。ドイツ館とソ連館が向かい合っていて、スペイン館にはピカソの『ゲルニカ』があって…。『ゲルニカ』は素晴らしかったよ。あの時代の叫びのようだったな」
岡本さんが天井を見上げながら、うなるように言った。吊るされているランプシェードはすべてタンタンがデザインし、自ら布を縫い上げて作ったものだ。
「あの時代の叫び…。すると『太陽の塔』は、今の時代の叫びですか」
僕は「鶏のメキシコ風」を口に運ぶ手を止め、岡本さんに訊いた。タバスコの入った辛いソースが僕のお気に入りだった。
「今の時代の叫び? ああ、その通りだよ。僕がずっと『べらぼうなものをつくりたい』と言ってきたのは村井君も知っているだろう? 『太陽の塔』は全くもってべらぼうだ。何がべらぼうって、言葉では説明できないからべらぼうなんだ。もう叫ぶしかないんだな。僕はね、人間の生きる喜びを直観的に訴えたいの。説明するんじゃなくてね。それが芸術なんだ。『芸術は爆発』だって言ったら、みんな驚いていたけど、当然のことじゃないかっ!」
岡本さんが丸い目を大きく見開いて、本当に叫んだ。
「サカさん、タローさん、イノさん、それにシロー。1934年にモンパルナスで出会った日本の若者4人が1937年にパリ万博の会場を一緒に歩いた。そんな素敵な昔話をシローから聞きました。それでまた30年以上の時を超えて、日本で初めて開かれる万国博覧会にそろって深くかかわることになるなんて…。なんだか不思議な縁ね」
タンタンが落ち着いた声で言った。
「それって運命よね」
いつの間にかタンタンの隣に座っていた作詞家の安井かずみがポツリと言った。
「なるほど1934年にモンパルナスで出会った4人の若者か。うれしいことを言ってくれますねえ、タンタンは。まったくシローは良い女性に巡り合ったよ。中年男と若い女性の恋ってやつは、概して残念な結末を迎えるものだが…。きっと相手が良かったんだな。ああ、失礼。ご本人の前で」
坂倉さんは少々ワインを飲みすぎているようだが、口調はいたって滑らかだ。
「いいえ、サカさん。そうおっしゃっていただいて光栄です」
タンタンが微笑んだ。
「僕たちはみんな日本文化の神髄を世界に伝えるべく奮闘してきたんだ。やり方はそれぞれ違っていても、根っこは同じだ」
岡本さんが言った。やはりワインを飲みすぎているようだが、酔っても言うことは一貫している。
「日本の文化を世界に…か。僕はまだ道半ばで、ここにいる若い人たちに期待しているんだけどね」
川添さんが言った。
そこに福澤幸雄が颯爽と現れた。店に残っている若手に声をかけて回っている。
「よう、象ちゃん。スピードに行かないか。ミッキーやムッシュも一緒だ。マチャアキ、順、トッポ、麗子、知子…、あと何人か先に行っているよ。クニも来ないか。最近はずいぶん忙しそうだな」
彼は福澤諭吉のひ孫で、パリ生まれのレーサー兼ファッションモデル。キャンティに集まる若者の中でも傑出して目立つ存在だった。スピードはキャンティから六本木方面に数分ほど歩いた先にできた最新のディスコだ。光ちゃんが盟友の馬忠仁と組んで経営している。
「ごめん、今夜は遠慮しておくよ」
僕はきっぱりと断った。日本の文化を世界に発信してきた先達の話をこのままずっと聞いていたかったからだ。「ここにいる若い人に期待している」という川添さんの言葉がグルグルと脳裏を駆けめぐっていた。
僕はスタジオAでシーナ&ザ・ロケッツのレコーディングをチェックした後、社長室に戻ってソニーの大画面テレビをつけた。
そろそろNHKの夜のニュースが始まる時間だった。
「日本のバンドが快挙。アメリカのロサンゼルスで…」
短い時間だったが、YMOの演奏と熱狂する観客の姿が全国放送で報道された。
「やりましたよ、川添さん」
僕は入院中の川添さんに会いに行った日を思い出していた。
大阪万博の開幕を2カ月後に控えた1970年1月9日の午後、僕は芝の慈恵医大病院を訪ねた。朝方は氷点下まで冷え込んだが、冬晴れの穏やかな日和になっていた。
「川添さん、あけましておめでとうございます」
「やあ、おめでとう」
川添さんがベッドから半身を起こして言った。窓から見える街路樹はすっかり葉を落としていた。
「アルファミュージックと提携しているバークレイのジルベール・マルアニが東京に来ているんですが、会っていただけますか」
僕は用件だけを事務的に述べた。
「入院先まで来てもらうのは申し訳ないが、僕は構わないよ」
「ありがとうございます。日程が決まったらお知らせします。では、今日はこれで…」
「ああ、村井君。ちょっと…」
帰ろうとする僕を引き留めるなんて、川添さんにしては珍しいことだった。
「はあ、なんでしょう」
「いいことを教えてやろう」
川添さんは僕の目をじっと見て、しばらく黙った。
「美は力だよ、君」
フランシス・ベーコンの「知は力なり」のもじりだとすぐに分かったが、彼の目はそれ以上の何かを語ろうとしていた。
前にも見たことのある目だった。川添さんに連れられて、ブロードウェイ・キャストの「ウエスト・サイド物語」のリハーサルを日生劇場まで見にいった。あのときの目だ。
演出と振付を手がけるジェローム・ロビンズとキャンティで食事をして、いろんな話を聞いた。川添さんとタンタンも一緒だった。
「よく見ておきなさい」
「よく聞いておきなさい」
川添さんの目はそう語っていた。「よく見ておきなさい。美は力だよ」と言いたかったのだ。
「美は力…。はい、ありがとうございます」
気がつくと、僕は川添さんの手を握っていた。手は冷たかったが、あんな柔和な表情は初めて見た。
思い返せば、僕がアルファを旗揚げして「国際的な音楽ビジネス」を目標に掲げたのも川添さんの影響が大きかった。会うたびにいろんな話をしてもらったが、最も心を引かれた話はアヅマカブキの欧米ツアーだった。
「村井君、もうひとつ、いいことを教えてやろう」
川添さんが姿勢を正して言った。その声は少しかすれていた。
「は、はい」
「この病院の隣にある蕎麦屋はうまいぞ」
それが最後の言葉になった。
川添さんは1970年1月11日午前に息を引き取った。57歳の誕生日まで、あと1カ月だった。
YMOの成功を伝えるニュースが終わった後、社長室の直通電話はずっと鳴りっ放しだった。相手は判で押したように「NHKを見たよ」と叫んだ。僕はついに受話器を取るのを放棄して会社を出た。行き先は決まっている。
カーラジオからシャンソンが流れてきた。
「聞かせてよ愛の言葉を」
川添さんの好きな歌だった。僕はキャンティの前で車を停め、ハンドルを握ったままつぶやいた。
「川添さん、YMOは僕にとってのアヅマカブキなのです」
それが何かの呪文だったかのように、キャンティのドアが音もなく開き、川添さんが現れた。
僕の目に浮かぶ涙が時空を歪めてしまったらしい。
ああ、タンタンもいる。坂倉準三さん、川端康成さん、三島由紀夫さん、福澤幸雄…。かつてキャンティに集った人たちが次々と現れ、祝福してくれた。
僕の涙が枯れ果てるまで、それは続いた。(完)