小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード14 YMO 村井邦彦・吉田俊宏 作

YMO#2

 象ちゃんの電話から数日後、1本のビデオテープが届いた。
 僕は早速、ビデオを再生した。
「皆さん、こんばんは。ようこそグリークシアターへ」
 ソニーの大画面テレビに司会者が映し出された。
「昨夜も、その前夜もチケットは完売。ひとつ言っておこう。これはただのコンサートではない。ひとつの事件だ。さあ、日本から来たアメリカ初のサウンドを温かい拍手でロサンゼルスに迎えよう。イエロー・マジック・オーケストラ!」
 幕が開いた。細野晴臣、坂本龍一、高橋ユキヒロの3人は、例によってそろいの赤い人民服を着ている。松武秀樹が巨大なシンセサイザーの前に陣取り、渡辺香津美がギター、矢野顕子はキーボードで参加している。
 オープニングは「ビハインド・ザ・マスク」だ。人民帽をかぶったユキヒロが正確なビートをたたき出す。彼のドラムは機械のように律儀だが、機械にはない人間的なグルーブも兼ね備えていて、バンド全体に素晴らしい躍動感を与えている。
 教授がボコーダーを通した機械的なボーカルを入れ、顔の上半分を覆う黒いマスクをつけた細野がシンセサイザーで淡々とベース音を鳴らす。松武が操作する巨大なシンセサイザーにはクリスマスツリーのような電飾が張り巡らされ、東京のネオン街のようにピカピカと光っている。まさに東洋の神秘を思わせるステージだ。
 派手にギターを弾きまくる香津美と紅一点のアッコちゃんの存在は、黙々と仕事をこなす4人と好対照をなし、絶妙なアクセントになっている。
 さらに「中国女」「ライディーン」…。何度も客席を映しているのは象ちゃんの指示だろう。観客の反応は最高だ。
 本来はザ・チューブスというバンドの前座なのだが、象ちゃんの作戦で「スペシャル・ゲスト・フロム・ジャパン」と紹介させている。音響や照明など、現地の担当者にも袖の下を渡し、前座とは違う特別扱いをさせたようだ。国際文化交流プロデューサーとして一時代を築いた川添さんの薫陶と、象ちゃん自身の経験が見事に生かされていた。

 僕は1971年のカンヌを思い出していた。最愛の夫を失ったショックから立ち直れずにいるタンタンを連れてカンヌに出かけた。花田美奈子さんも一緒だった。あの旅の後、タンタンは少しだけ元気を取り戻したように見えた。千葉の館山の先にある荒れ果てた海岸に土地を買い、誰かに運転を頼んで何度も足を運んでいた。僕は忙しくて一度も付き合えなかったが、タンタンはその景色が好きだったようだ。イタリアの海に似ていたのだろうか。残してきたマルタを思っていたのかもしれない。
 ユーミンの第2作「MISSLIM」のジャケット撮影のために、アパートの部屋を開放してくれたこともあった。川添さんが亡くなった後、タンタンは青山にあるアパートに移っていた。
 このジャケットのユーミンはイヴ・サン=ローランのプレタポルテ「リヴ・ゴーシュ」の衣装を着ている。モノクロ写真だから黒いイブニングドレスのように見えるが、カットソーとサテンのマキシスカートだ。スタイリストはサン=ローランの日本代表でもあったタンタン自身が務めた。しかし、彼女は「MISSLIM」の発売を見ることなく、1974年5月に逝ってしまう。
 タンタンは亡くなるまでマルタを思っていた。自分の遺産となるキャンティの株の一部をマルタに送ってほしいと、光ちゃんこと光郎に言い残していたのだ。
 光ちゃんはイタリアに飛び、実母の原智恵子さんの通訳でマルタと話し合った。キャンティの実質的な経営者になっていた彼は、株式を自分に譲ってほしいと頼み、マルタが望む対価を支払った。彼女は現金で遺産を受け取ったわけだ。
 幼い自分を置いて家を出てしまった母親に対する感情は複雑だったかもしれないが、亡くなるまで自分を案じてくれていたと知ってマルタもうれしかっただろう。実際、彼女の息子、つまりタンタンの孫はそれを機にしばしば来日し、やがて日本で仕事をするようになる。
 原智恵子さんは川添さんと別れた後、1959年にチェロの巨匠ガスパール・カサドと再婚した。夫であり、師でもあるカサドを通じて西洋音楽の神髄に迫ることができて、原さんも満足していたに違いない。

 象ちゃんの言った通り、グリークシアターの観客は熱狂していた。YMOが演奏を終えても拍手は鳴りやまない。ついに司会者に促されてアンコール演奏が始まった。「東風」だ。
 これはニュースではないか。僕はそう思った。
「日本のバンドがアメリカを席巻」
 そんな見出しまで浮かんだ。
「よし、NHKに売り込もう」
 僕はすぐに受話器を取り、NHKの知人を呼び出していた。即断即決。川添さんもキャンティで雑談している最中にアイデアがひらめくと、すぐに誰かに電話をかけ、その場で話を進めていた。川添さんをはじめ、キャンティに集った人たちから学んだことは計り知れない。
 そんなことを考えていたら、10年余り前の光景が脳裏によみがえってきた。

 キャンティが開店9年目を迎えた1968年9月、僕はザ・テンプターズに提供した「エメラルドの伝説」のヒットで急に忙しくなっていた。
 都内各地を勤勉に走り続けてきた路面電車が相次ぎ姿を消していった時代だが、四谷三丁目と浜松町一丁目を結ぶ「都電33系統」はまだ何とか命脈を保っていた。四谷三丁目、左門町、信濃町、権田原、青山一丁目、新坂町、竜土町、六本木、三河台町。
 次が飯倉片町の電停だった。
 この付近は路面電車が終電を迎える時刻にはひっそりと静まり返り、暗闇に包まれる。それからが象ちゃんの出番だった。店の前に椅子を持ち出してフラメンコギターを弾き始めるのだ。彼の背後には、タンタンの手よる流麗な筆記体で「CHIANTI」と記されたプレートが光っていた。
「いいねえ、やっぱり象ちゃんのギターは最高だよ」
 僕はここで彼のギターに耳を傾けるひとときが好きだった。
「ありがとう、クニ。今のは『ファルーカ』っていう曲でね、サビーカスから教わったんだ」
 店の窓から漏れる明かりが彼の横顔を照らしていた。
「フラメンコはいいよね。奥に深い悲しみがあって、胸にしみてくる」
 9月も後半だというのに残暑が厳しい。
「うん。情熱的だけど、その裏に哀愁があるんだ。俺がニューヨークでサビーカスに教わった後、スペインのマドリードでロマの人たちと一緒に演奏していたって話はしただろう? それでさ、フラメンコがどうしてこんなに情熱的で、こんなに哀愁があるのか、その理由が分かった気がするんだ」
「理由?」
「言っておくけど、分かったっていっても言葉では説明できないよ」
 彼はそう言って、ギターを激しくかき鳴らした。
「そうだね。言葉にできないからこそ、僕たちは音楽をやっているんだ」
 僕は飯倉の向こうにそびえ立つ東京タワーを眺めながら言った。

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