小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード14 YMO 村井邦彦・吉田俊宏 作

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード14では、川添浩史と梶子が1960年にキャンティを創業してから19年後、1979年が舞台となる。アルファレコードを創設した村井邦彦は、川添浩史の息子である象郎とともに、細野晴臣が率いるイエロー・マジック・オーケストラを世界に送り出そうとしていた。(編集部)

※メイン写真:アルファレコード社長室

エピソード13までのあらすじ

 川添浩史(本名は紫郎。後に浩史と名乗る)は1934年、21歳でパリに渡り、モンパルナスのカフェを拠点に交遊関係を広げていった。生涯の友となる井上清一、建築家の坂倉準三、美術家の岡本太郎らのほか、報道写真家ロバート・キャパのような外国人とも親交を結んだ。

 やがて世界は戦争の時代に突入する。浩史が想いを寄せていた富士子とキャパの恋人ゲルダは、カメラマンとして赴いたスペイン内戦の戦地で若い命を散らした。浩史はパリで知り合ったピアニストの原智恵子と結婚し、第2次大戦の前に帰国する。

 戦後、浩史は日本舞踊のアヅマカブキを率いて欧米公演を成功させるなど、国際文化交流プロデューサーとして実績を上げていく。彼はアヅマカブキのナレーションを依頼した岩元梶子と恋に落ちて再婚し、1960年に2人でキャンティを開業する。
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YMO#1

 アルファレコード本社は国鉄田町駅の芝浦口からすぐの交差点にあった。
 裏を流れる運河を渡って、潮の香りの混じった生ぬるい風が吹いてくる。運河の先を走っているのは、羽田に向かうモノレールだ。
 1979年8月2日夕刻、僕は本社ビル4階の社長室に戻ってきた。
 かつてこのビルは2階から4階まで吹き抜けになっていて、映画の撮影スタジオがあった。僕は建築家の坂倉竹之助に頼んで4階に20坪ほどの部屋をつくってもらった。竹之助は川添浩史さんの親友、坂倉準三さんの息子だ。
 無理やり増築したため、窓があるのは一面だけで、昼でも薄暗かった。コンクリート打ち放しのロフトのような部屋だった。
 坂倉さんの師でもある近代建築の巨匠ル・コルビュジエがデザインしたダイニングテーブルを社長室の事務デスクにした。書類やLPレコード、楽譜などをたくさん広げられるから、作業にはとても都合がよかった。
 アルファの誇る最新鋭のレコーディングスタジオ「スタジオA」はこの社長室の真上にあった。
 僕の到着を待ちかまえていたかのようにデスクの直通電話が鳴った。
「もしもし、クニ?」
 ロサンゼルスに出張している川添象郎からだ。僕は象ちゃんと呼んでいる。向こうは午前3時過ぎのはずだ。
 象ちゃんは20歳そこそこで渡米し、ラスベガスの現場で舞台芸術とショービジネスを学んだ。スペインでフラメンコギターを弾いていた時期もある。帰国後は反戦ミュージカル「ヘアー」を日本に呼び、プロデューサーを務めた。僕はアルファレコードの制作担当役員に彼を迎えていた。
「やったぜ、大受けだよ。グリークシアターは満員でさ、スタンディングオベーションの嵐になったんだ」
 この日はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のロサンゼルス公演の初日だった。僕は東京に残り、現場の仕切りは象ちゃんに任せていた。
「そんなに受けたの?」
「受けたなんてもんじゃないよ。アメリカ人が熱狂しているんだ。男も女もね」
「彼らにとっては、初めて聴くテクノポップだからね」
「うん。それもあるし、俺の作戦も当たったんだよ。彼らに『余計なトークはいらないから、黙々と演奏してりゃいいんだ』と言ったわけ。細野も教授もユキヒロも英語なんてろくにしゃべれないからね。3人とも『そいつは気が楽だ』とか言って喜んじゃってさ。例の制服を着て黙々と演奏したんだ。無表情でね。いかにもアメリカ人の考える日本人だろう?」
「そうだね。彼らの目には神秘的に映る。それに加えて日本の得意なエレクトロニクスを前面に打ち出した音楽だからね」
「そうそう、ハイテク先進国のイメージも手伝って、どんぴしゃでハマったんだ」
 やはり現場を象ちゃんに一任したのは正解だった。9年前に亡くなった彼の父、川添さんの遺伝子を感じた。
「グリークシアターのステージは3夜連続だから、今から準備すれば最終日のステージを映像に収められる。金はかかるけど、やってもいいかな?」
 僕は迷うことなくゴーサインを出した。

 僕は細野晴臣と初めて会った日を鮮明に覚えている。広尾にあった川添さんの自宅で、彼は象ちゃんのギターを借りて弾いていた。ほんの8小節聴いただけで、すごい才能の持ち主だと分かった。
 アルファミュージックの第1号契約作家「ユーミン」こと、荒井由実のデビューアルバムを企画していた僕は、演奏とアレンジを細野に依頼することにした。彼は松任谷正隆や鈴木茂、林立夫といった腕利きのミュージシャンを連れてきて「ひこうき雲」という美しいアルバムに仕上げてくれた。ユーミンの繊細な感性がキラキラと輝き始めた。
 細野は大瀧詠一、松本隆、鈴木茂と組んだバンド「はっぴいえんど」で日本語ロックを確立した一人だが、その後は沖縄音楽やインド音楽など、新しい分野を開拓し始めた。「無国籍音楽」と呼ぶ評論家もいた。
 僕は細野の気持ちがよく分かった。日本人が西洋音楽を探究していくと、結局はアイデンティティーの問題に突き当たる。自分の音楽が外国でどう受け止められるのか、どうしても知りたくなる。
 僕は細野をアルファのプロデューサーとして迎え、日本人の作るポップスを世界で成功させようと考えた。それは細野の夢でもあった。振り返ってみれば、川添さんの夢にもつながっていた。
 僕らは夢を共有したのだ。
 やがて細野は坂本龍一と高橋ユキヒロを連れてきてYMOを結成し、夢はYMOに託されることになった。

 アルファの社長室に置いた接客用のイスは、ル・コルビュジエと並び称される巨匠ミース・ファン・デル・ローエが1929年のバルセロナ万博のために作った「バルセロナ・チェア」の復刻版だった。壁にはサイ・トゥオンブリーのドローイングとコンセプチュアルアートの作家リチャード・ロングの作品を架けていた。
 試聴に最適なバランスの良いスピーカーと再生装置、さらにソニー製の大画面テレビを備え、アルファから発売するレコードはすべてこの社長室で僕が試聴した。
 海外の著名なアーティストやレコード会社の幹部たちが頻繁に訪ねてきた。アルファと提携したA&Mレコード共同会長のハーブ・アルパートとジェリー・モスをはじめ、クインシー・ジョーンズ、ピーター・フランプトン、ポリス…。彼らはほとんど例外なく、この部屋を気に入り、感嘆の声を漏らした。自分が日本で契約しているアルファレコードはなかなかスタイリッシュな会社じゃないかと思ってくれたかもしれない。そうなれば僕にとっても都合がよかった。
 実際、この社長室はとても居心地の良い場所だった。僕はここでパリやロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスのミュージシャンや業界人と国際電話で話した。欧米とは時差があるため、しばしば午前零時ごろまで執務した。

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