小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード7 パリーキャパとゲルダ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード7

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード7では、川添紫郎(浩史)の人生に大きな影響を与えることになる、写真家のロバート・キャパことアンドレ・フリードマンとの交流が描かれる。(編集部)

※メイン写真:アール・ヌーヴォーの装飾で埋め尽くされたレストラン「マキシム・ド・パリ」

【エピソード6までのあらすじ】
 1934年夏、川添紫郎はフランスに旅立つ。東京で左翼運動をして逮捕されたが、フランス留学を条件に釈放されたのだ。彼は長い船旅の間に富士子という同年代の女性と知り合い、次第に惹かれていく。しかし、南仏マルセイユに着いたところで別れ別れになり、紫郎はカンヌへ、富士子はパリに向かうことになった。
 紫郎は南仏カンヌの伊庭家で夏を過ごし、いよいよ34年秋からパリで生活を始める。同じようにパリ留学を条件に釈放されてきた井上清一をはじめ、丸山熊雄、坂倉準三、岡本太郎、城戸又一といった日本人と知り合い、モンパルナスのカフェを拠点に親交を深める。やがて紫郎の交流関係はポール・ヴァレリーをはじめパリの知識人たちにまで広がっていくが、富士子の消息はつかめなかった。
 隣国ドイツではヒトラーのナチスが政権を握り、日本は国際連盟を脱退するなど、歴史が大きく動き始めていた。時代の荒波はパリの留学生たちの生活にも影を落とし始める。ある日、紫郎はモンパルナスの街にたむろするファシストの荒くれたちに襲撃されるが、陰で彼を警護してきた鮫島一郎に窮地を救われる。

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『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード7
パリーキャパとゲルダ ♯1

「アンドレってやつは、どうにも憎めない男だったね。女にも金にもだらしないんだけど、あいつの笑顔を見ていると、もうどうでもよくなっちゃうんだよなあ」
 近づいてくるパリの街を車窓からぼんやり眺めながら、井上清一が言った。もうすぐリヨン駅に到着する。川添紫郎と井上、丸山熊雄、岡本太郎の4人は1935年の夏を南仏カンヌで過ごしてきた。坂倉準三は忙しくて行けないと残念がっていた。紫郎にとっては1年ぶりのカンヌだった。
「ああ、カンヌで知り合ったユダヤ人だろう? 女にも金にもだらしない、か。同感だ。そういう意味ではシローに似ているね」と丸山が言うと、一同はどっと笑った。
「そりゃないよ、マルさん。そのうちアンドレ・フリードマンは立派な写真家になるよ。そんな予感がするんだ」と紫郎が頭をかいた。
「伊庭さんのアパルトマンにタローっていう柴犬がいて、すっかり僕に懐いていただろう? 『タローは遠くにいても太郎さんの匂いが分かるのよ』って、シモンちゃんが言っていたけど、アンドレの嗅覚はタロー以上だな。女の匂いが分かるんだよ」と太郎が言った。
 金魚のようなギョロ目をいっぱいに見開いて、3人を見回しながら太郎が続ける。
「グランドホテルのビーチに寝転んで話していたら、やつが急に立ち上がって速足でどこかに歩いていくんだよ。どこに行くのかと思って、あわてて追いかけたらさ、30メートル先をきれいな女の子が歩いているんだ。3メートルじゃなくて、30メートル先だよ? アンドレのやつ、その娘とすぐに仲良くなって、どこかに消えていっちまった。フランス語だってろくに話せないのにさ。いったい、あいつは何者なんだ」と太郎がおどけてみせたが、全員が「アンドレならあり得る話だ」という顔で「うん、うん」とうなずいていた。
「そういえば、太郎はアンドレにくっついてきたゲルダっていう少年のような女の子と2人きりで話し込んでいたじゃないか」と紫郎が訊いた。
「ああ、見ていたのか。彼女はアンドレより幾つか年上なんだ。やつの恋人なのかもしれないが、ちょっと複雑な事情があるようだったな。彼女もユダヤ人だしね。ドイツ出身だけどフランス語も達者で、ポーランドのパスポートを持っていて……。そのあたりは深く訊かなかったが、どうやら彼女にはイタリアかどこか他の国に昔の恋人がいるらしい。ずいぶん悩んでいたよ。アンドレなんかやめて、僕の女になりゃいいのに」と太郎が真顔で言うと、他の3人が同時に「なりゃしないよ」「なるわけない」「おまえだけはない」と声を上げ、また一斉に笑った。
「それよりシロー、あのシモンちゃんはおまえにぞっこんのようだが、どうするんだ。嫌なら僕が引き受けようか?」と太郎が身を乗り出して言ったが、紫郎はとぼけた顔をして「その件についてはノーコメントだ。さあ、着いたよ」と言って立ち上がった。

 リヨン駅の構内は相変わらず薄暗い。やけに風が冷たいなと紫郎は思った。まだ9月下旬だというのに、もうパリには夏の気配はほとんど残っていないようだ。彼は改札の向こうに見覚えのある姿を見つけた。
「やあ、川添君。久しぶり」
「さ、鮫島さん。いったい、どうして……」
「うちのボスが君に会いたいそうだ。ご一緒のお友達には悪いが、一人で来てくれるかな?」
 鮫島一郎は有無を言わさぬ調子で言った。相変わらず仕立ての良い背広を着ているが、今日は珍しく真っ赤なネクタイを締めている。
「ボ、ボスって……。満鉄の所長ですか。確か、龍馬のご子孫でしたよね」
「ああ、ちゃんと覚えていてくれたか。坂本龍馬と後藤象二郎の子孫が幕末以来70年ぶりにパリで再会か。私が新聞社か通信社の特派員なら、早速、本社に打電するところだな。さあ、あそこに金田君を待たせてある。ああ、お友達の皆さん、申し訳ありませんが、川添君を借りていきますよ」
 鮫島は井上たちにそう声をかけ、ルノーの運転席にいる金田に合図を送った。
「先日はどうも……」
 後部座席に乗り込んだ紫郎はミラー越しに目が合った金田に会釈した。あの時より、さらに痩せたように見える。40歳ぐらいかと思っていたが、もう少し年上かもしれない。
「いいえ、どういたしまして。よろしいですか。出発いたします」
 金田は表情を変えず、金属的な声で事務的に応じてアクセルを踏んだ。ルノーのエンジンは2度、3度と唸り声を上げたが、咳き込むようにして止まってしまった。
「も、申し訳ございません。どうも今朝から調子が悪くて……。あれ、おかしいですね、今日に限って……」と金田が狼狽した。
「金田君、あわてなくてもいいよ。そういう日もあるさ。そうだ、これを口実にして、新型のシトロエンに買い替えてしまおうか」と鮫島が一人で笑った。
「ああ、かかりました。こんなことは今日が初めてです。申し訳ございません。きちんと整備しておきます」

 コンコルド広場とマドレーヌ寺院を結ぶロワイヤル通りの中ほどでルノーは静かに止まった。「マキシム」の看板を掲げたレストランだ。オーギュスト・ペレのサロンで知り合ったポール・ヴァレリーやアンドレ・ジッドたちの会話に何度も登場する店だった。
「ムッシュー・サメジマ、ムッシュー・サカモトがお待ちかねです」
 ドアボーイが飛んできて、恭しく言った。
「メルシー、ベルナール。私はすぐこっちに戻ってくる。後でディアボロ・グルナディンを持ってきてくれ、金田の分もな」と鮫島が応じた。顔なじみのようだ。
「おや、いつものディアボロ・マントではなく……。ああ、なるほど、今日の赤いネクタイに合わせてというわけですね。さすがはムッシュー・サメジマ。グルナディンを2杯、かしこまりました」
「ふふふ。ベルナール、君はなかなかの男だな。私が出世したら、君を秘書にしたいよ」
 鮫島は若いドアボーイの肩をポンポンとたたき、店に入ろうと紫郎をうながした。

「所長、連れてまいりました。川添君です」
 アール・ヌーヴォーの意匠で埋め尽くされた絢爛たる内装に紫郎は圧倒されていた。モンパルナスのラ・クーポールやル・ドームといったブラッスリーやカフェも日本の店に比べれば明らかに洗練されているが、若い留学生でも気軽に出入りできるオープンな空気がある。しかし、この店は少々次元が違っていた。
「よく来てくれたね。満鉄の坂本です」
 骨ばった四角い顔、黒々とした髪、太い眉、精悍な目……。坂本龍馬の甥の長男という先入観があるからか、どこか龍馬に似ているようにも見える。坂本直道は聞きしに勝る威風堂々たる男だった。
「は、はじめまして。川添紫郎と申します」
 紫郎は自分の声が緊張で震えているのが分かった。
「鮫島、ご苦労だった。君はもう事務所に戻っていいぞ」
 坂本は紫郎の目を真っすぐ見据えたま、鮫島に言った。
「いえ、私は外で見張っています」
「うむ、そうか。頼む」
「はっ、失礼します」
 鮫島は紫郎の顔をちらりと見て、にこりと笑って出て行った。
「あ、あの、母が勝手なお願いをしたそうで、た、大変ご迷惑をおかけしました」と紫郎がぺこりと頭を下げた。しどろもどろになっているのが自分でも分かった。
「いやいや、君の父上の猛太郎先生には言葉では言い尽くせないほど世話になったんだ。おもんさんにもずいぶん助けられたものさ。ところで、鮫島は役に立っているかな」
「ファシストの暴漢たちに襲われた時、危ういところを鮫島さんに救われました」
「うん、その件は報告を受けているよ。ファシストの暴漢たちか……」
 そこに背の高いフランス紳士が現れた。坂本とは旧知の間柄のようだ。
「オクターヴ、お客さんが到着したよ。紹介しよう。彼はリョーマの同志、ショージローの孫なんだよ」と坂本が応えた。
「おお、リョーマの同志! ようこそ、マキシムへ。オクターヴ・ヴォーダブルと申します」
「はじめまして。シロー・カワゾエです。何年か前にこのマキシムを買って再建されたお方ですね。素晴らしいお店で感激しています」
 紫郎はヴァレリーから聞いた話を思い出しながら言った。
「川添君、パリに来てまだ1年なのによく勉強しているねえ。そうさ、今のマキシムの繁栄はオクターヴの努力のたまものさ。この店は以前から社交場としてにぎわっていたんだが、徐々に風紀が乱れてきてねえ……。彼はこの店を買って、客層を絞ったのさ。著名人と富裕層にね。今ではヨーロッパ各国の王族たちもよく来るようになった」と坂本がフランス語で解説してみせると、ヴォーダブルは「ありがたいことです」とうなずいた。
「オクターヴ、前菜はフォアグラのテリーヌだったね? ワインは何がいいだろう。やはりシャトー・ディケムかな」
 ヴォーダブルが後ろを振り向いて声をかけると、ソムリエが飛んできた。
「フォワグラのテリーヌでしたら、年代物のディケムと合わせれば格別でございます」と中年のソムリエが即答した。
「1893年のディケムがあります。マキシムが開店した年です。当時、たくさん仕入れたようですが、今は酒蔵に3本しか残っておりません。日本の封建社会を終わらせた英雄のご子孫の邂逅を祝して、特別にご用意いたしますよ。いかがでしょうか」とヴォーダブルが笑みを浮かべながら言った。
「残り3本か。もちろん、お願いするよ。私は1892年生まれだからマキシムより1歳年上というわけか」
 坂本は感心したように、何度もうなずいた。
 紫郎はいったい勘定はいくらになるのかとめまいがした。そういえば経費は潤沢に使えると鮫島が言っていたくらいだから、所長ともなれば自分の裁量で何とでもなるのだろう。

飴色に変わった年代物の白ワイン「シャトー・ディケム」

 坂本は松岡洋右の補佐としてジュネーブで開かれた国際連盟総会に随行し、孤立の道を選ぼうとする日本の代表団の中で「欧米との戦争は回避すべきだ」と主張して孤軍奮闘したという。何十年も昔を回想するような話しぶりだが、わずか2年半前の出来事だった。
「国際連盟を脱退した後、日本は完全に孤立しつつありますね。いったい、これからどうなるんでしょう」と紫郎が身を乗り出したところに、フォアグラとディケムが運ばれてきた。フォアグラにはディケムのジュレが添えられている。
「日独伊の接近は絶対に避けなければならない。アメリカとは組まないにしても、日本は英国と組む必要がある。私はそう考えているよ」
 坂本はグラスに注がれたディケムをまじまじと見つめた。
「すっかり飴色になっているな。さすがは40年物のディケムだ」
「これ、白ワインですよね?」
「うむ。熟成が進むとこうなるんだ。ああ、さっきの話の続きだがね。とにかく貧乏国の日本が同じ貧乏国のドイツやイタリアと組んでもゼロ足すゼロはゼロにすぎない。日本の孤立を避けるためにも、フランスは味方につけなければならい」
「はい」
「そのために私は『フランス・ジャポン』をつくったんだ」
 満鉄が読売新聞の松尾邦之助を好待遇で編集長に招き、日仏の文化交流を促進する雑誌を創刊したことは紫郎も知っていた。
「日本とフランスの接着剤は文化だというわけですね」
「君は理解が早い。さすが後藤象二郎翁の孫だ」
 フォアグラの濃厚な甘みとディケムの芳醇な甘みが相乗効果を生み、奥行きのある複雑な香りが鼻腔いっぱいに広がる。紫郎は坂本の話を聞きながら、フランス料理の奥の深さに感動していた。莫大な富を背景に、何世紀にもわたって最高の食を追求してきたヨーロッパの歴史の厚みには圧倒される。日本はこんな奥の深い文化を築き上げた西欧文明と正面から向き合っていかなければならないのだ。
「ところで川添君、君は何をやりたいのかな?」
「映画です」
「ふむ。映画監督を志望しているということかな?」
「いえ、日本の優れた映画を世界に紹介し、世界の優れた映画を日本に持ってくる。そんな仕事ができればいいと考えています」
 紫郎はパリに来て以来、毎週のように映画を見ていたが、坂本もヨーロッパ各国を飛び回りながら、各都市で時間があれば映画を見ているという。映画の話は尽きなかった。
 メインの舌平目の蒸し焼きが運ばれてきた。メートル・ドテルが坂本と紫郎の皿に移し、中骨を外してソースをかけると、紫郎がこれまで経験したことのない香りが立ち上った。
「素晴らしい香りですね。このソースはバターと、それから……?」と紫郎が訊くと、メートル・ドテルは「たっぷりのバターにノワイー酒とフォン・ド・ヴォーを合わせた特製のソースでございます」と満足げに応えた。
 紫郎が「ノワイー?」と首をかしげると、メートル・ドテルはすかさず「南仏のドライ・ヴェルモットでございます」とにこやかに説明した。
 舌平目に合わせて用意された白ワイン、バタール・モンラッシェの1920年物が残りわずかになった頃、坂本が「よし、決めた」と改まった声で言った。
「川添君、君に任せることに決めたよ。日本に行ってめぼしい映画を買いつけてきてくれないか。パリで上映会をやって、有力者に見てもらうんだ。どんな映画でもいいが、日本に好意を持ってもらえそうな作品でないと困るな。当然ながら、満州を否定する映画もいけない。とにかく映画の力で、親日派のフランス人を増やしていこうじゃないか。金の心配はしなくていい。満鉄がすべて面倒を見る」
「は、はい。よろしくお願いします」
 紫郎は深々と頭を下げた。

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